SHIPS MAG 読者の皆さん、こんにちは。
『スペクテイター』編集部の青野です。
『スペクテイター』は、おかげさまで今年の9月で創刊20年目を迎えることができました。
これを機に創刊から現在までの足跡を振り返る連載をスタートさせていただきました。2回目の今回は1999年の創刊前から8号目までのスペクテイターの舞台裏を回想してみたいと思います。
創刊当時から愛読してくださっている皆さんも、この時代にはまだ生まれていなかったという方も、20年前にタイムスリップした気分で読んでみてください。
はじめに
『スペクテイター』は今年の9月で20回目の誕生日を迎えた。8月末に発売した最新号で通巻42号目だから、およそ年に2冊のペースで号を重ねてきたことになるね。
年刊2冊…雑誌と名乗っている割にはスローペースだな。何故に、そんなに時間がかかっているのか?
それは当の本人にとってもミステリーだ!
連載の1回目にも書いたけど、これまでの本誌の歩みを現在の読者と共有したいと思ったのが、この連載を始めた理由だ。
雑誌というのは毎号続けて購読されることを前提に発行されている連続性のあるメディアだよね。毎号読んでいればページを開いた瞬間から、その世界にすんなり入っていけるけど、雑誌特有の世界観に初めての人は戸惑うこともあるんじゃないかと思うんだ。
乗り物に例えるなら長距離列車みたいなもので、いったん発車したら前へ前へと進み続けなければいけない宿命にある。途中で乗車したお客さんは、その電車がこれまでどんな旅をしてきたかも知らないわけだよね。
それでも一緒に旅は出来るけど、どうせなら過去についても知っておいてもらったほうが、いっそう旅を楽しんでもらえると思ったんだ。
『北の国から』の「ドラマスペシャル版」を観る前にテレビ放映されていた「連続ドラマ版」を見ておいたほうが楽しめるみたいな感じ?
まぁ、そんなところかな。とにかく、前向きに過去を振り返ってみようということだ。例によって対談形式でノンビリやらせてもらうから、ラジオでも聞いているような気分で読んでもらえたら嬉しいな。
また、ノンビリか。その考え方がミステリーを生み出している気もするが…。
ともあれ、時計の針を20年前に巻き戻してみよう!
雑誌と書店がアツかった時代
スペクテイター創刊号が初めて書店に並んだのは、1999年の9月25日のことだ。
ミレニアルを目前に控えて世の中全体がソワソワしていた頃だね。新聞や雑誌にも「世紀末」の文字が踊っていた。
当時の出来事というと、NATO軍によるコソボ空爆が開始(3月)、コロラド州コロンバイン高校で銃乱射事件(4月)、茨城県の東海村でJOC臨界事故(9月)、シアトルでWTO閣僚会議反対デモ(11月)などなど。
たしかに世紀末を象徴するような事件も多かったけど、いつのまにか21世紀の幕が開いていた気がする
編集発行人の青野は21世紀になる前に本誌を創刊しておきたかったらしい。「20世紀最後の雑誌」と呼ばれて後世にまで語り継がれることを目論んでいたとか、なかったとか。
モヒカン族の最後みたいな感じか。もはや紙の本が出版の歴史から消えつつあるけど…。
公開された映画は『マトリックス』、『ファイトクラブ』、『アメリカン・ビューティー』他。邦楽のヒット曲には、モーニング娘。「LOVE マシーン」、宇多田ヒカル「Movi’on without you」、GLAY「Winter, again」などがある。
ふむ。
インターネットが普及し始めたのもこの頃で、ファイル共有サービス『NAPSTER』や「2ちゃんねる」がスタートしたのも99年らしい。
ようやくADSL回線が開通、日本におけるインターネットの人口普及率も21%程度だったというから、ネットの影響力もそれほどじゃなかった。出版業界もノンキにかまえていた時代かも。
メディアの主役の座がネットにとって変わられるという予測もあったけど、まさか雑誌をスマホで読む時代になろうとは、この頃はまだ誰も想像していなかった。
創刊号の巻頭で編集長はハッタリ気味に、こんなことを書いている。 「携帯電話やインターネットのおかげで、わざわざ情報を入手するための努力をしなくても情報が勝手にやってくる時代になった」。
スマホの時代はまだ先で、この頃はまだ雑誌もソコソコ売れていたから、ハッタリっぽいね。
そのころ書店の棚にスペクテイターと一緒に並んでいた雑誌というと。
メジャーなところだと『Esquire』、『STUDIO VOICE』、『サイゾー』、文春のカルチャー誌『TITLE』とか。 菅付雅信さんが編集発行していた『COMPOSITE』、中西大輔さんの『リトルモア』、『BRUTUS』の元編集者だった岡本仁さんが編集長に就任してリニューアルした『relax』等は同じ中学校の先輩後輩みたいな存在として勝手にライバル視していたけど、いつのまにか学校からいなくなってしまった。
『スペクテイター』は留年して居残っているできの悪い生徒みたいな感じか。
大型書店が元気だった時代でもあるね。六本木の青山ブックセンター、渋谷のパルコブックセンター、池袋西武地下のリブロなどには大変お世話になった。
いずれも残念ながら閉店してしまった店だが…。
タワーレコード渋谷店の7階にあったタワーブックスも本誌には馴染みの深い店だった。タワーブックスはその後2階へ移って、現在も充実した品揃えで重宝しているけど、7階にあった当時は編集者とかマニアックな情報を求めている連中にとっては貴重な情報給油基地みたいになっていた。アマゾンもSNSもメールすらも浸透していなかった時代だったから、雑誌は貴重な情報源だった。情報を手にするには街に出なきゃいけなかった。
そんなことをイチイチ言う時代になるとは隔世の感があるなぁ。
ぼくたちの共和国をつくろうと考えた
タワーブックスではビースティボーイズが編集発行していた『Grand Royal』とか『ナショナルジオグラフィック・アドヴェンチャー』のような珍しい洋雑誌や少部数発行の雑誌も直取引されていたから、たまに足を運んでCDと一緒に買って帰るのが楽しみだった。
そこでも販売されていたイギリスの雑誌『DAZED & CONFUSED』(UK版)には少なからず影響を受けたんだ。当時売れっ子だった写真家のランキンと編集者ジェファーソン・ハックが91年に創刊したファッション誌。音楽やファッションやアートなどのエンタメ系の記事に加えて社会的な問題を扱った、やや硬派な記事が載っていた。
マンチェスターの空港反対運動をしているニューエイジトラヴェラーのドキュメンタリーとかね。
単なるサブカルチャーやユースカルチャーの域を超えようとしている感じで好感が持てたんだ。
ドキュメンタリーの写真も、いわゆる報道写真とは違うアーティスティックな調子だったりして。伝統的なジャーナリズムに若者が挑んでいるみたいな気概が感じられてよかった。
『DAZED』は編集者に知り合いがいて編集部にも何度か足を運んだことがある。倉庫みたいな広々とした空間でエディターとかフォトグラファーがクリエイティブな議論を交わしていたりして、なんだか勢いがあったんだよね。
イギリスでは『i-D』や『THE FACE』みたいなユースカルチャーを代弁する雑誌が彗星のごとく現れては、やがて時代を席巻するメディアへと成長していく。そんなパターンが21世紀頃までは見受けられた気がする。
ヴァージン航空の創設者リチャード・ブランソンも学生時代に音楽雑誌を立ち上げて商業的な成功を収めて、それを元手に事業家としての道を歩み始めたという逸話がある。
20世紀は雑誌の先に夢がある時代だった…。
『DAZED』は90年代のユースカルチャーを引っ張る雑誌として一目置かれていた。当時、その『DAZED』でフリーの編集者として社会派のルポを寄稿していたマイケル・フォールダムという男がいたんだ。パラシュートで崖から飛び降りるベースジャンプとかビッグマウンテンスノーボードとかの過激なスポーツ、冒険旅行、ストリートジャーナリズムなどをコンセプトにした『ADRENALIN』という刺激的な雑誌の発行人をつとめていて、イギリスの若手ドキュメンタリー写真家の作品を集めて「PHOTO JOURNALISM IS DEAD」という写真展をキュレーション開催したり、精力的な編集活動を展開していた。その彼に触発されて日本のユースカルチャーを独自の視点で切り取った雑誌をつくりたいと思いはじめたんだ。
マイケルには創刊2号目に寄稿してもらった。
池袋の路上とか、レイヴ・パーティの会場とか、深夜の漫画喫茶とか、大人の目の届かない場所で若者たちが何をして、どんなことを考えているか。メジャーな新聞や雑誌が記事として取り上げないことを、ノンフィクションのストーリーとして読ませる雑誌をつくりたかったんだ。
今だったらTwitterやInstagramが吸い上げて話題になることもあるけど、社会の端っこで暮らしている若者たちの声を拾い上げて活字にするメディアは、当時はあまり無かった気がする。
このとき編集長は32歳。前の世代の大人たちがつくりあげた常識的な生き方とか社会に生き辛さを感じていたこともあって、自分たちの共和国を気づきあげようという思いもあったようだ。
「共和国」は、かつての『宝島』が好んで使っていたフレーズだね。
雑誌というのはライターやカメラマンなどを巻き込んで、独自の世界を描くメディアでもあるから、そんな気分になるんだね。
スペクテイターとは「見物人」という意味で、スポーツの観客のことをそう呼ぶらしい。「見物人」というと、現場で起こっている出来事を遠くの方から眺めている無関心層みたいな印象もあるけど、ちょっと違うんだよね。
世の中で起こっている出来事を自分で体験して、それでどう感じたかを自分の言葉で語るということを信条としていた。
調査対象の現場に出かけていって、そこで生活している人たちと接触し、彼らの視点にできるだけ近づきながら現場のリアリティを観察・記録する方法は、ジャーナリズムの世界では「参与観察」と呼ばれる。この方法に習って、落ちている木の実があったら食べてみる。そこで暮らしている人がいたら寝食を共にしてみるというように、編集者や書き手が体験して感じたことを記事にする現場主義のやり方で雑誌をつくってみようと思ったわけだ。
ライターもカメラマンも読者も、みんな時代の観察者、すなわちスペクテイターであるという考え方だったらしい。
スモールマガジンの台所事情
創刊号の奥付には3人の名前が「編集担当」として記されている。青野も過去に籍を置いていた音楽カルチャー誌『Bar-f-Out!』で広告営業を担当していた釣巻秀嗣と神田典子さん、そして青野の3人だ。
神田さんは当時マガジンハウスの『Olive』や『BRUTUS』等の雑誌で健筆を奮っていたフリーライターで、ファションや暮らしに関する話題にも詳しい、頼りになる先輩という感じだった。
青野が神田さんと知り合ったのは、ある仕事がきっかけだった。『Bar-f-Out!』が某アパレル会社から依頼を受けて別冊号をつくることになった。フランスのパリのサブカルチャーやファッション・カルチャーに焦点をあてた別冊特集号だった。
そのアパレル会社が扱っていた洋服の多くがパリでつくられていたんだ。ダフトパンクとかI:Cubeとかのミュージシャンが頭角を現していた頃で、〈コレット〉というセレクトショップが開店して話題を集めたり、『Purple』や『SELFSERVICE』のような新しいファッション雑誌が出版されたりしてパリのユースカルチャーが盛り上がっていた。それでパリ特集号を出そうってことになったわけだ。
その別冊の編集と取材を青野と神田さんが担当することになった。市内のホテルに3週間ほど逗留して、パリを拠点に活動するデザイナーやミュージシャンに「どうやって作品をつくっているんですか?」と聞いて回って取材して一冊にまとめた。
「お宅訪問」みたいな感じでクリエイターの創作現場を訪ねては膝を突き合わせて話をするうちに、それぞれ暮らしている国は違っても、みんな同じ考えや悩みを抱いているということがわかってきた。
それまで雑誌で紹介されていた海外クリエイターというと、憧れを持って眺める高嶺の花みたいなものという印象だったけど、どうやら自分たちと同じような調子でモノづくりをしているようだ、と。だったらもっと深いところをグローバルな視点で取材して探ってみようと考えたわけだ。
そう考えたら逆に同じ日本に暮らしながらも理解し得ていなかった隣人の頭の中身についても興味が湧いてきた。
一般的な雑誌の記事には、最新のモノをカタログ的に紹介することを目的につくられた商売の匂いのする内容が多かった。僕らは、そういうのじゃない、値段のつかないものやカタチのないもの。たとえば意識とかビジョンといわれるもの話題にしてみたかったんだ。
普通の人から見たら規格外と思われているヒッピーとかアウトローみたいな人たちの暮らしのレポートを通じて、読者が自分の生き方を考え直すというような雑誌をつくりたかった。
そんな雑誌は無かったから、じゃあ僕ら二人で創刊しようという話になったわけだね。
神田さんはスペクテイター専属ではなく外部スタッフとして関わってくれていたわけだけど、雑誌全体の方向性や編集のやり方についても親身になって一緒に考えてくれた。
創刊号では他にも色んな雑誌のライターや編集者が寄稿してくれた。音楽ライターとして活躍していた宮内健くんにエレクトーン奏者タッカーについてのルポを書いてもらったり、写真家として世界で活躍中の米ちゃんこと米原康正さんにコギャルについての論考を書いてもらったり。ほかにも会社にバレないように匿名で原稿を書いてくれた他誌の編集者もいた。
「商売と紐付かない、本当のことが書かれている雑誌をつくろう」という呼びかけに応えてくれたのは編集者だけじゃなかった。カメラを通して現実を切り取ることに慣れている写真家たちも、新しい視点を獲得しようとしていた本誌に賛同してくれた。
イギリスの写真家ニック・ワプリントンや大森克己さん、グレート・ザ・歌舞伎町や斉藤圭吾くんなど。現在活躍中の写真家たちが安いギャラにもかかわらず協力してくれた。
スペクテイターを創刊する前の青野は『Bar-f-Out!』を発行する会社に籍を置いていたわけだけど、稼ぎ頭の『Bar-f-Out!』とは別の出版物をつくる部署を社内に立ち上げて一人で仕事をしていた。「新規事業部」とか勝手に名付けてね。
創業者特権を活かして好き放題やっていたわけだね。
『スペクテイター』も「新規事業」のひとつということで予算を無理やり工面してスタートしたわけだけど、誌面に登場するのは無名の人ばかりだし、売れるかどうかもわからないから制作予算も少なかった。 それでも1号目は海外取材の記事を入れておきたかったようで、ライターと写真家を連れてシアトルに出かけている。
スペクテイター創刊号
創刊号の特集タイトルは「ALT LIFE」。これはオルタナティブライフという言葉を短縮したものだ。
巻頭特集でMANASTASH(マナスタッシュ)を取材するために北米ワシントン州へ出かけている。MANASTASHはアメリカや日本でも人気を集めていたアウトドアウェア・ブランドで、ハイキングとかカヤッキングとかアウトドアの遊びのなかにモノづくりのヒントを得ていた。だから遊びも仕事だと聞いていて、それってどういうことなのかなと思っていたんだ。
アウトドアブランドにはそういうところが多いけど、実際どうやって服づくりをしているのか。創作プロセスや造り手の思考の方法を詳細に伝えるメディアはなかったから、彼らとハングアウトしながら、その実情を見てこようという企画だ。
MANASTASHのオーナーのロバートと一緒に山登りをしたり、森のなかに暮らすアンバサダー(商品開発の協力者)の家を訪ねたり。背後にある「雰囲気のようなもの」はつかめた気がしたけど、結局はハングアウトしただけで時間が過ぎてしまった気も…。
MANASTASHを紹介してくれたのは「ヘンプは世界を結ぶ新しいムーヴメントを作れるか?」という記事の取材にも応えてくれた関村求道くん。スニーカーやアメリカのストリートカルチャーに詳しくて、イン・サン・フラワーというヘンプ素材の服を扱うショップのオーナーで、東京ヘンプ・コネクションというアパレルブランドもやっていた。
ヘンプというのは麻のことだけど、化繊に変わるエコロジカルな素材として麻が注目を集めはじめていた。麻を素材に使う理由には、単なる商売というよりも地球に負荷をかけないようにというような精神的な意味があるということが、取材を通じてわかった。そういった新しい意識のあり方を伝えたかったんだね。
僕らが尊敬する先輩編集者の森永博志さんがある雑誌で、こんなことを言っていた。 「編集者にとって雑誌づくりで重要なのは息の合うデザイナーをつかまえることだ。それができれば雑誌は成功したも同然だ」とね。
僕らにとっては創刊号から10号目くらいまでADをつとめてくれたイルドーザーが、まさにそんなデザイナーだった。雑誌のレイアウトデザインというのは、単に文字や写真を整理して綺麗に並べるだけの仕事じゃない。文字と写真、それぞれ単体からは伝わってこない魔力のようなものを、大きさや配置の仕方を工夫することで立ち上がらせるのがデザイナーの力量だと思っているんだけど、彼らはそういう力を持っていた心強い仲間だった。
イルドーザーは石黒景太と阿部周平を中心としたグラフィックデザイナー集団。CDジャケット、本の装丁、アパレルの仕事などを手がけていて、ラッパーの故ECDのアルバムジャケットは全て彼らがデザインしたものだ。
石黒と阿部は青野より4、5歳年下で、石黒はキミドリという3人組ラップユニットでラッパーとして活動していたことがあり、阿部はプロスケーターだったこともあるという異色の経歴の持ち主だった。
創刊号をつくっているときは、これに筒井良という男性が加わって3人だったけど、現在は美術作家としても活躍中の井口弘史、雑誌『POPEYE』のアートディレクターの前田晃伸が在籍していた時代もある。
イルドーザーが雑誌を丸々一冊デザインするのは本誌が初めてだった。レイアウトソフトの使い方も印刷の知識も乏しくて、常識的な作り方じゃなかったかもしれない。
ハードディスクからレイアウトデータの取り出す方法がわからなくって、ハードディスクごと印刷所に持参して入稿をしたこともあったね。
そんな素人同然のイルドーザーに誌面のデザインを頼んだのは、彼らの発想力に惹かれたからだ。彼らは普通のデザイナーがやらないような斬新なアイデアを提案してくる。そもそもデザイン業界にいなかったということもあるけれど。
4号目の表紙は彼らの事務所に転がっていたレコードジャケットをそのまま版下として採用したものだ。アートの用語で言うところのレディメイドというやつだね。創刊号の表紙の用紙の目を、わざと裏表逆にして使ったのも彼らのアイデアだった。
イルドーザーのデザインやアイデアは突飛に思えるものも多かったけど、誰も真似できないオリジナリティのあるものだった。
オリジナリティや自分独自のスタイルを大事にするのはラッパーやスケーターにとっては当たり前のことなのだろう。その考えをデザインに取り入れていたおかげでスペクテイターも独自なものになった。
カッコいいと思われていることや、すでに世の中の評価が定まっていることを真似してしまうことは、実はとてもカッコ悪いということ、誰にも似ていないことが何よりも重要であるということを青野は彼らから学んだんだ。
彼らは、初めて手がける雑誌であるスペクテイターを同世代から支持されるメディアにするために、デザインだけでなく記事の内容についても真剣に考えてくれていた。一緒に取材に出かけたり、取材のネタを提案してくれたりしたことも度々あった。
イルドーザーと編集部の関係は、単なる仕事の依頼主とデザイナーではなく、一蓮托生という感じだった。彼らはどうかわからないけど、少なくとも青野はそう思っていた。
ある日、茨城県の東海村で放射能施設の臨界事故が起こったとき、夜中に石黒から電話がかかってきて、これからカメラマンと現場に向かうから一緒に来てくれと言う。結局その取材は交通規制か何かのせいで実現しなかったが、雑誌づくりについて真剣に考えてくれていたことが嬉しかった。
過激じゃなければ生き残れない
2号目は「エクストリーム」特集号。「エクストリーム」というのは「極端な」とか「過激な」という意味だね。
過激なスポーツの愛好者を取材するということで、プロのスケーターやスノーボーダー、BMXライダーにインタビューをしたり、北海道のアウトドアショップ〈グリズリー・バックパッカーズ・ストア〉のスタッフに北海道のフィールドでの遊び方を紹介してもらった。
エクストリームスポーツのプロフェッショナル、つまり過激なスポーツをすることを自分の生き方のひとつとして選ぶ若い世代が出てきたんだ。そんな彼らの意識を記事にしたいと思った。
日本各地で活動しているエクストリームな人たちに会うために、岡山、神奈川、愛知、群馬、北海道の各地を渡り歩いて取材をしいている。
結局、この号では何を知りたかったのかというと、エクストリームなスポーツが得意な人の頭の中身はどうなっているかということだった気がする。取材したスノーボーダーの上村能成くんから「滑ったあとに脳内にアドレナリンが出ているのを感じる」と聞いて、脳内物質とは何かが気になって、脳の働きに詳しい東大の石浦章一教授に話を聞きにいった。
最初に台割を決めずに取材しながら方向修正をして。行動しながら考えていた感じだね。
編集というのは、そういうものだという考えがあったのかも知れない。ある現場とかシーンに飛び込んでいって、そこで変化した自分の意識を記録する。カッコ良く言うなら行動する編集部という感じか。
体験主義というか、雑誌とも一蓮托生だったんだね。それだから余計に時間がかかっていたのかも知れないけど。
3号目は「個人旅行って何だ?」という特集。特集扉の見開きページにはゴシック体で「Backpackers Now!」と書かれている。
このころ、リュックサック一つで世界各地を長期に渡って旅するバックパッカーと呼ばれる旅人が現れた。主に1971年から75年頃に生まれたいわゆる団塊ジュニア世代で、当時25〜30歳前後の若者たちだね。
彼らはベビーブーマーと言われる団塊世代の子どもたちで、クラスメートの人数も多かったから人とは違う変わったことをしないと埋没しちゃうということで、変わったヤツが多かった。そんな連中が、いっせいに海外長期旅行へ出かけるようになったんだよね。
その背景には航空法の規制緩和が進んで格安航空券が出回り始めたことが影響しているというのが僕らの分析だったけど、彼らバックパッカーたちが、どんな旅をしているかを探ったんだ。
バックパッカーの聖地と言われていたタイのカオサン通りと沖縄の国際通りに取材に出かけていって話を聞いた。
4号目の特集は「LIVE IN TOKYO」。東京特集というのはカルチャー誌が必ず一度は組む特集だ。東京をどう斬るかで、その雑誌の視点が表現できる。資本力に乏しい雑誌がやると大半はショボいものになりがちだけど。
本誌独自の視点でやろうということで東京が地元の若者の遊び方について、池袋のスケーターや裏原宿のバーテンダーなどに話を聞いた。
東京生まれ、東京育ちの東京ローカルのライフスタイルを取材したんだ。
開高健の『ずばり東京』という本を参考にして24時間営業のジーンズショップとか深夜のファミレスにいた夜行型人間のコメントを集めたり、〈ツバキハウス〉〈GOLD〉など東京の遊び人が集っていた伝説のディスコのプロデューサーに当時の様子を聞いたり。「もうひとつの東京」の素顔をドキュメントしてみたかった。
この号を出した翌年の春、青野は釣巻を引き連れて前の会社を辞めて、渋谷区の千駄ヶ谷に新たに事務所を構えた。
創刊号から1年のあいだに計4冊を出したけど、売上的にも良い結果を出せず、いよいよ社内でも好き勝手できなくなったから、全財産の300万円を元手に会社を興して、新体制でスペクテイターを続けることになったんだ。
新しい編集部は12畳ほどの広さの築40年ぐらいの古いワンルームマンション。そこに本の在庫や、前の会社から貰ってきた古い机とパソコンを並べて裸一貫という感じでリスタートしたんだ。
新体制で最初に出した5号目は「HIGH LIFE」特集。この年の初めにベルギーでマリファナの使用が法律で認められた。それをきっかけにマリファナについて考えてみたという特集だったね。
独立してから最初の号、世間の話題を集めるには大胆な内容にしなきゃいけないという思いもあったんだろう。青野はオランダのアムステルダムに一人で出かけてコーヒーショップを巡り歩いてレポートを書いた。
この号から判型がガラっと変わっている。これまでは写真を中心とした、いかにもグラフ誌っぽい誌面だったのが急にモノクロ1色ページが増えて活字も増えた。
誌面を刷新したのは印刷に予算が割けなくなったというのが大きいんだけど、商業誌では本領を発揮できていない駆け出しのマガジンライターに活躍の場を与えたいという気持ちもあって、これを機に判型やロゴも含めてガラっと構成を変えたんだ。
幸運にも5号目は過去にないくらいの速さで完売。おかげで出版活動を続けることができた。
わたしはコレで会社を辞めました
6号目は「LOVE & PEACE」。レイヴ・パーティのオーガナイザーにインタビュー取材をして一冊つくる予定だった。
この夏、日本のあちこちで、過去にないくらい沢山の野外レイヴが開かれた。レイヴと言っても若い人はピンとこないかも。
東京から車で2、3時間ほどのところにある山のなかのキャンプ場を借りて開催されるダンス・パーティのことだ。巨大なスピーカーから爆音で流れるトランス・ミュージックやテクノなどの4つ打ちビートに合わせて翌朝までガンガン踊って、力尽きてテントで寝て帰ってくるという。
レイヴは今に例えるなら野外フェスみたいなものだけど、オーガナイズも野フェスほどしっかりしていないし、低予算だし。出店屋台もインドで買い集めた雑貨を並べて売る店があったりして。個人事業主っぽいというか商業主義の匂いもしなくて、そこが逆に面白かった。
毎週末ごとにどこかで開催され、なかには1万人以上もの客を集めるパーティもあった。何千人もの客をロックするトランスパーティの主宰者が、まるで司祭のように思えたんだ。
彼らは一体どんな人たちなんだろう? どんな世界を目指しているのか? 一夜限りの魅惑の空間を創りあげているオーガナイザーの意識を探りたいと思って、合計11組のパーティオーガナイザーにインタビュー取材をした。
オーガナイザーの取材をするならば彼らのパーティを体験してからじゃないと話にならないだろうということで、ほぼ毎週末ごとにパーティに出かけることから始まった。
編集長が所有していた小型車に編集スタッフ全員とキャンプ道具を詰め込んで、夜から明け方までフロアで爆音を浴びながらガンガン踊って、平日にはオーガナイザーを取材して、テープおこしをやって、また週末が来たら出かけるというような日々だった。取材というよりは、まるで修行のようだった。
現在3人いる編集スタッフのうちの一人である片岡典幸が加入したのも、この号がきっかけだった。
当時27歳だった片岡は海外放浪の旅から日本に帰ってきたばかり。これからどんな仕事に就こうかと考えながらフラフラしていたとこ編集部の釣巻から声をかけられて、レイヴ・パーティのオーガナイザーの知り合いも多いということでインタビュー取材を手伝ってもらったりしているうちにテープ起こしなどもやるようになり、気がついたら会社のスタッフとして働くことになっていたんだ。
7号目は、そんな片岡が放浪生活をしていたときに海外で知り合った仲間から旅の様子を聞き書きしてつくった「VAGABONDING GIUIDE」という特集だ。
これには元ネタがあるんだ。ED BURYNという人が書いて73年にアメリカで出版された『VAGABONDING IN AMERICA』という百科事典みたいな本。自動車とか電車とか、それぞれの手段でどうすれば放浪旅ができるか。そのノウハウを紹介した本で、パラパラ見ていると旅に出たくなる。これの日本語版をつくろうと思いつき、放浪旅を体験した同世代の旅人の体験談を聞き書きして特集をつくったんだ。
特集記事はオーストラリアを放浪した男性の旅の体験談から始まって、3年も世界を放浪しながら野外パーティへ行き倒していた男性の体験談と続き、最後は放浪旅の果てにベルリンに移住してゲストハウスを開業した女性の話へとつながる流れにした。
最初は短期間の放浪旅から始まって、最後は海外に移住してしまうという構成だね。
読み進めていくと自分も放浪したくなるようで、この号を読んで会社を辞めたという人と会ったことがある。
「放浪旅のススメ」という副題の通り、「放浪しようぜ!」と読者に提案するような特集だったからね。 前号の取材で、あるレイヴ・パーティに出かけたときにカメラマンの三田正明くんと久しぶりに再会したんだ。三田くんには過去に仕事で撮影を頼んだことがあったけど、しばらく見ないあいだに三田くんは日蝕を追いかけて世界を旅するレイヴトラベラーになっていた!
そこで青野が三田くんに電話をして「ブラジルに一人で取材に行ってこい」と司令を出したというエピソードが、彼のルポの冒頭に書かれている。
三田くんは、たった1人で30時間以上も飛行機に揺られ、はるばるブラジルはバイーア州のビーチタウンに出かけて愉快な滞在記を書いてくれた。
この頃は大手の金融機関が相次いて破綻するなど景気も落ち込んでいて、就職氷河期と呼ばれる時代でもあった
派遣労働とかフリーターと呼ばれる人たちも増えて、どうせまともな職にありつけないなら放浪していたほうがマシだろうという空気が世の中に流れていた。そんな状況が後押ししてくれたおかげか、この号も大変よく売れた。
破天荒な雑誌編集者に憧れた
8号目は半分がニューヨーク、半分が北朝鮮という、両極端な内容を詰め込んだ特集。
ちょうど知り合いの編集者から編集の仕事の話を持ちかけられて、青野がニューヨークに1ヶ月滞在することになった。依頼主は御供秀彦さんという『POPEYE』の元編集者で、あるアパレル関係の会社から依頼を受けてニューヨークの自転車メッセンジャーの写真集をつくるとことになったから、その編集を手伝ってくれと誘われたんだ。
1冊の写真集のために1ヶ月もニューヨークに滞在するなんて、今じゃ考えられないお大尽仕事だけど、御供さんがニューヨーク暮らしを楽しみたかったんだろう。それでお伴することになった。
御供さんは当時、近所に住んでいたこともあって、よく手土産にオハギを持ってスクーターで編集部に遊びに来ては、『POPEYE』時代の破天荒な編集者のエピソードを聞かせてくれた。アフリカ取材の取材経費として「象一頭 一千万」という領収書を落とした編集者の話とか、撮影に夢中になって崖から落ちた写真家の話とか。
この頃のスペクテイターは御供さんが聞かせてくれた有名編集者の武勇伝に触発されて、破天荒な雑誌を目指していた時期と言えるかも。
ニューヨークの仕事は空いた時間にスペクテイターの取材をしても良いという条件だったので、ニューヨークのストリートカルチャーに詳しい編集者・有太マンこと平井有太を日本から現地に呼び寄せて、ニューヨーク特集をつくろうということになった。
ヒップホップ文化が生まれてから30年。当時と現在のニューヨークのストリートカルチャーを検証しようということで、ヒップホップ映画『ワイルドスタイル』にも登場したグラフィティアート作家やブレイクダンサーのアトリエを訪ねたり、伝説のハウスパーティTHE LOFT体験記など、いろんなニューヨークのストリート文化を取材して記事にした。
後半には、北朝鮮のマスゲームや平壌市内の様子を写した写真が20ページ以上に渡って掲載されている。写真家のグレート・ザ・歌舞伎町が、ある旅行会社が企画していたアリラン(芸術)観光ツアーに参加してバシバシ撮りまくってきものだ。
グレート・ザ・歌舞伎町については別の機会に改めて話をさせてもらうけど、初期のスペクテイターで大活躍してくれた写真家だ。その行動力と体力は並じゃなく、東北に奇祭があると聞けば北へ、四国に闘犬のイベントがあると聞けば西へと車を走らせて、仕事もプライヴェートも関係なくフィルムで写真を撮りまくる。僕らは彼を「24時間カメラマン」と呼んでいた。
北朝鮮のマスゲームを観戦できる機会があると聞いて、一般客を装ってツアーに参加したらしい。旅費はグレート自身が自費で捻出して、大量の写真を提供してくれた。
青野がニューヨークに滞在しているあいだに日本に残った編集スタッフが、それを記事として組み込むことにしていたんだ。
この頃のスペクテイターは編集会議も無いし、あらかじめ台割りを決めることもなく、おもろいネタがあれば何でも詰め込む主義だった。
誰かが獲ってきた獲物をみんなで食べる。共和国というよりも部族的というべきか。
おかげでぶっ飛んだページになったけど、驚いたのはそれだけじゃなかった。この号を発売した翌月、小泉総理が北朝鮮を訪問して日朝首脳会談が開かれ、翌月には蓮池薫さんや曽我ひとみさんら5人の拉致被害生存者が帰国。日本中が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
そんなことになるとはつゆとも知らず、北朝鮮情勢に詳しい重村智計教授にインタビューして、こんなことを聞いている。 「日本からエロ本を持っていって、ガイドの人なんかにあげていたんですけど、絶対その場では見ないんです。やっぱり向こうにはエロ本ってないんですか?」
そんな質問にも真面目に答えてくれた重村さんは、後に北朝鮮に詳しい論客としてテレビのワイドショーなどでも良く見かけるようになった。
時代を先取りしていたと盛り上がったね。
というわけで、創刊から8号目までを駆け足で振り返ってみたわけだけど、この頃のスペクテイターは異様にテンション高く、やれることは何でもガムシャラにやっていた。
楽器や演奏法を変えながら、どんな楽曲を演奏するかを模索していた、ジャズに例えるとインプロビゼーションの時代という感じか。
そんなにカッコいいものじゃないけどね。
創刊号から5号目までは、判型もロゴもチョコチョコ変わっていたし、本文の用紙も毎回変えていた。
出版界の常識では考えられないことだけど、そうやって自分探しをしながら成長してきたから現在があるとも言える。
成長する雑誌をやるというのが当初の目的だったわけだしね。
大人になってもまだ成長し続けているような気もするけれど…。
と、まぁ、こんな調子で最新42号まで続ける予定ですので、今後もお付き合いのほど、よろしくねがいします!
特集:ALT LIFE(オルタライフ〜新しい価値観 新しい生活)
1999年9月25日発行
A4変形(H275*W228)
96ページ
定価750円(税別)
創刊号。ALT LIFEとは「オルタナティブライフ」の略。ヘンプ素材のアウトドアブランドMANASTASH、ブリストルの音楽シーン、東京ヘンプ・コネクションなど、「既存のやり方にとらわれない」「もうひとつの」やり方で活動しているクリエイターたちを取材。グラフィティ・ライターTWISTの東京滞在記、ブランドUNDERCOVERのファッションショー取材など、読み切りルポ記事も掲載。
特集:EX - Generation(エクストリーム・ジェネレーション)
2000年2月10日発行
A4変形(H275*W224)
96ページ
定価780円(税別)
「エクストリーム」をテーマに「極端」で「過激」な人たちを取材。世界イチ過酷なアドベンチャーレースとして知られるレイド・ゴロワーズの選手へのインタビュー、カーステレオを改造して爆音を鳴らす日本音圧協会のルポ、アルコール中毒から生還したラッパーのECDが語る闘病体験談など。2号目で早くも表紙のロゴを刷新。売上を期待して表紙には銀色を敷いて型押し印刷を施したが、あまり効果は無かった。
特集:個人旅行って何だ?
2000年5月12日発行
A4変形(H275*W224)
96ページ
定価780円(税別)
航空法の規制緩和により運賃の自由化が進み、海外旅行客の人数が過去最高を記録。格安航空券で世界を長期に渡って旅するトラベラーと呼ばれる個人旅行客が周りに大勢あらわれた。彼らはどんな旅をしているかをタイのカオサン通りと沖縄の国際通りで取材した。この頃、世界各地でおこなわれていた日蝕レイヴ・パーティの記事やアムステルダムぶっトビ旅、バンドと同行「追っかけ旅」などユニークな旅の記事も掲載。
LIVE IN TOKYO 2000
2000年10月1日発行
A4変形(H284*W234)
112ページ
定価880円(税別)
東京生まれ、東京育ちの若者たち=東京ローカルのライフスタイルを取材した特集。裏原宿の不良が溜まるバー店主の談話、池袋のスケーターの日常、深夜のファミレスの人間模様など、やや捻じれた視点から東京を切り取った。東京特集と銘打つならばタウンガイド的なページも必要だろうと編集長が一人で都内の終夜営業のレストランや書店などを取材して巡ったが、ひとりで情報を網羅するには東京は広すぎた…。表紙には写真家の三浦憲治が撮影したジョン・ライドンのレコードジャケットの写真を転用。
特集:HIGH LIFE ハイライフでいこう!
2001年5月25日発行
A4変形(H275*W210)
116ページ
定価952円(税別)
「カンナビスのあるハイな暮らし」について考えた特集。当時は話題にすることさえタブーとされていた大麻に焦点を当て、オランダのアムステルダムとモロッコのマラケシュへ取材に赴き、その土地での扱われ方を体験談風にレポートした。「ハイな暮らしの手帖」の「商品テスト シガレットペーパーはどれも同じではない」「趣味の工芸 自分だけのジョイントを作りましょう」などのパロディ記事も話題を呼び、これまで最もハイなペースで完売した。
特集:ALT LIFE(オルタライフ〜新しい価値観 新しい生活)
1999年9月25日発行
A4変形(H275*W228)
96ページ
定価750円(税別)
この夏、大流行した野外レイヴ・パーティに焦点を当てた特集。毎週末ごとに各地で開催されていたパーティに編集部総出で参加しては夜を徹して踊りまくり、宴が明けたらパーティの主催者にインタビュー取材。ヘトヘトになりながら11組のオーガナイザーとの談話を集め、いざ原稿を書きはじめたら、ニューヨークで911テロが勃発! なにがなんだかわからないまま平和をテーマにしたアート作品を急遽あつめて掲載。「SUMMER OF LOVE」特集の予定が「LOVE & PEACE」特集になった。
特集:VAGABOND! 放浪旅のススメ
2002年4月30日発行
A4変形(H275*W210)
128ページ
952円
放浪旅体験者へのインタビューを中心に、放浪の旅のその先に何があるかを考えてみた特集。トラベラーの間で話題のブラジルのビーチタウン、トランコーゾへカメラマン三田正明を単独で派遣して旅行記を書かせたり、歌舞伎町で物売りをしているイスラエル人の家に片岡をホームステイさせてルポ記事を書かせたり、編集長のムチャ振りが随所に見られる。表紙はデザイナー前田晃伸が作成した砂絵を撮影。
特集:NOWHERE
2001年8月10日発行
A4変形(H275*W210)
124ページ
952円
特集の前半はフリーライターの有太マンをナビゲーターにニューヨーク在住のグラフィティアートやヒップホップカルチャーの立役者たちを取材した「FRESH SCHOOL NYC」、後半は写真家のグレート・ザ・歌舞伎町が北朝鮮の芸術(アリラン)鑑賞ツアーに参加して撮りおろした貴重な写真を中心とした「北朝鮮が呼んでいる」。両極端な記事の二本立て。この号の発売直後に日朝首脳会談が開催され、拉致被害者が帰還。
発売/2018年8月31日
特集;新しい食堂
◆「かわらばんくんと読む 食堂早わかり画報」構成と文 編集部 作画 三好吾一
◆ 食堂は人なり 撮影 安彦幸枝 画 TACT SATO
ウナカメ 丸山伊太朗「ブリコルールの場所」 構成と文 東良美季
按田餃子 鈴木陽介&按田優子「ふつうの味が あたらしい」構成と文 青野利光(本誌)
マリデリ 前田まり子「ブッダボウルはW自由Wの味がする。」 構成と文 北尾修一
なぎ食堂 小田晶房「当たり前のようで、特別な店の在り方」構成と文 赤田祐一(本誌)
◆「食堂幸福論」構成と画 物干竿之介
小上がり/ありがとね/東京ラーメン
◆「食堂開業心得帖 D.I.Y.とWはったりWの店づくりハウツー」文 いとうやすよ(ヴィーガンカフェバー Loca ★ Kitchen 店主)イラスト 菅野公平 撮影 伊藤和馬
◆「結局、食堂って何?」文 遠藤哲夫 画 東陽片岡
◆「ブックガイド もっと食堂を知るための本」構成・文 編集部
1967年生まれ。エディトリアル・デパートメント代表。大学卒業後2年間の会社勤務を経て、学生時代から制作に関わっていたカルチャー・マガジン『Bar-f-Out!』の専属スタッフ。1999年、『スペクテイター』を創刊。2000年、新会社を設立、同誌の編集・発行人となる。2011年から活動の拠点を長野市へ移し、出版編集活動を継続中。