SHIPS MAG 読者の皆さん、こんにちは。
スペクテイター編集部の青野です。
最新刊、赤塚不二夫・特集号は、もうお手にとっていただけましたか?
過去最高のページ数! 圧倒的な文字量! もーれつな熱量! で、日本におけるギャグ漫画の礎を築いたと言われる天才漫画家・赤塚不二夫の「創作の秘密」に迫った特集号。
名作マンガの背後にある、語られざる人間ドラマやエピソードが垣間見れ、赤塚マンガが今まで以上に楽しめる内容になっているのではないかと自負しています。
さて、今回は特集にならって、当特集が生まれるまでの「創作の秘密」をめぐる対話をお届けします。
本誌編集者は、どんなきっかけで、この企画を思いつき、どのようにして記事にしていったかをドキュメントします。
赤塚マンガのファンの方はもちろん、あらゆる創作活動に関わる人にも、ぜひ読んでみて欲しいのだ!
◎まずは、最初に赤塚作品に触れたときのエピソードについて教えてください。
?小学生の頃、「おそ松くん」や「天才バカボン」が大流行していたんです。町の貸本屋さんに曙出版の「おそ松くん全集」がズラッと揃えて置いてあったりして、そこで赤塚マンガを順番に借りて熟読しました。
◎貸本屋というのは戦後から昭和の時代に存在した商売で、DVDレンタルショップみたいにマンガ本を安い値段で貸し出してくれる店のことですよね。
?小学生のお小遣いでしょ? 読みたいマンガはいくらでもあるんだけど、いちいち買ってたら破産しちゃうから、弟と一緒に一回三冊とか、貸本屋で慎重に選んで借りてきて読んでいました。借り賃は当時一冊50円くらいだったでしょうか。個人的な話ですけど、亡くなった叔母が自宅でドレスメーカーをやっていて、家に遊びにいくと隣に小さい貸本屋があったんです。あるとき、その店に古い漫画が大量に置いてあることを知って。だから叔母の家へ行くのが楽しくて仕方なかったですよ。今回スペクテイターでインタビューした根本敬さん(特殊漫画家。最新号の巻頭で赤塚作品への想いを語ってくれた)のケースと同じです。
スペクテイター38号「赤塚不二夫」特集
◎おばさんの家の近所の貸本屋で赤塚漫画を読んでいた?
?レンタルして、叔母の家に持ち帰って読んでました。焼き芋とかアイスを食べながら。
◎借りた日に返却するのが貸本屋の決まりなのですか。
?連日借りることもできましたけど、それはしなかったですね。印象的だったのは曙出版の「おそ松くん全集」「赤塚不二夫全集」です。その全集本のカバーの袖には、著者近影としてモノクロの写真が掲載されていました。四十数巻ほどもありましたが、各巻どれも違う格好で、赤塚不二夫がギャングや海賊に変装して写っていて。
◎たのしそうなオジサンみたいな感じ?
?そうね。
◎赤塚さんはサービス精神が旺盛だったんですね。
?『少年サンデー』の巻頭グラビアで写真マンガみたいな企画もやってました。一本の短編映画をつくるみたいにコンテを立ててロケハンして写真撮影して、そのスチールをマンガのコマのように組み合わせてグラビアをつくるんです。ヘアメイクや衣装をつけて、専門店にお願いしてモデルガンを借りてきたりして。そのときの『少年サンデー』の写真も、全集の近影用に流用していたみたいですね。
◎なるほど。
?だから「楽しい人だな」という印象でしたね。とにかくマンガが面白かった。「おそ松くん」とか「バカボン」とかゲラゲラ笑いながら読んでました。あんなにマンガで笑った体験はなかった。
◎そのとき何年生でした。
?小学四年生とかでしょうか。「バカボン」と「おそ松くん」以外で赤塚作品の全貌のようなものが見えてきたのは74年頃かな。当時『少年マガジン』で「赤塚不二夫特集」というグラビア記事があって、それを読んだのです。そこに五十嵐隆夫(元『週刊少年マガジン』編集者。*本誌にインタビュー掲載)さん、横山孝雄(元フジオ・プロ・マネージャー/漫画家*同)さんが編集された「赤塚不二夫の秘密」みたいな記事が載っていて、「これはすごい!」と。キャラクター紹介、詳細な作品リストなどもあるバラエティーに富んだ内容で。この記事から、赤塚不二夫という作家にはこういう広がりがあるんだと教えられたのですね。
赤塚不二夫先生。1975年頃(撮影=國玉照雄)
◎「赤塚全集」に採録されていた漫画の他にも、たくさん漫画を描いていた。
?その特集で10数ページを費やして赤塚事典をやっていたんですよ。トリビアがいっぱい載っていて、実に面白かったんです。今回の特集の一部には、『少年マガジン』記事の影響もあると思います。その号の『マガジン』の表紙も良かったですよ。バカボンのパパのアップが描かれていて、その口からバーッと大量のキャラクターを吐き出されるというデザインで。あと印象的なのは、『まんがNo.1』(72年、発行・日本社)ですよね。
◎マニアのあいだで評価の高い、フジオ・プロが制作費を出して編集を手掛けた伝説のマンガ雑誌ですね。小学生の頃にオンタイムで買っていたんですか。
?ええ。その頃、赤塚不二夫は絶頂期で、連載をもっていた『少年サンデー』『少年マガジン』『少年キング』の三大少年誌に『まんがNo.1』創刊の広告が載ってたんです。なにしろ赤塚不二夫責任編集のマンガ雑誌が創刊というのだから、読まざるをえないわけで。ワクワクして書店で買い求めたんですが、当時の印象は「大人のエロ本」みたいだったんですね。責任編集とあっても赤塚不二夫のマンガはあまり掲載されてなくて、知らない漫画家の描くやらしいマンガがいっぱい載っていて…。
◎小学生には刺激が多すぎた。
?大人になってからようやく面白みが理解できるようになったけど、まだ小学五年とかだから「こんな本持っていちゃマズいんじゃないか!」と思って、江戸川の土手に捨てにいったという悲しい思い出があります。
◎笑!
?当時の小学生は、みんなガッカリしていたと思いますよ。
◎当時の赤塚のマンガの面白さというと? 「バカボン」や「おそ松くん」の魅力と言えば、スラップスティック的な面白さですよね、いろんなキャラが出てきてドタバタ劇を繰り広げるという。
?やはりバカバカしさじゃないですか。
◎こんなバカなこと言ってる?よって感じ?
?いちいちギャグとか思い出せないけど。
◎バカが大勢でてくる。
?バカしか出てこない。それで変なことを言う。あのくだらなさが面白かったんじゃないですか。
◎バカ田大学のセンパイとか、レレレのおじさんとか、ちょっと変わった大人が大勢出てきますからね。
?「おそ松くん」は昭和37年から『少年サンデー』に連載された作品ですけど、食べものネタがいっぱい出てきていました。ただし自分は「おそ松くん」をリアルタイムに読んだのではなくて、「おそ松くん全集」に収録された本で読んだのです。連載開始から10年ほど経過していましたから、当時ちょっと古い感じに見えましたよね。昭和40年代後半は、豊かな時代だったし。
◎どういう意味ですか?
?たとえば六つ子が「スイカの皮を漬物にした」というエピソードが出てきて「えっ、スイカの皮って食べられるの?」みたいに思ったりして。
◎昭和40年代といえば、もはや戦後の貧しい時代からだいぶ時間が経っているけれど、スイカの皮の漬物なんかが貴重なものとして出てきたりして、古臭いという感じ。
?赤塚不二夫も自著で書いていたけど、「おそ松くん」はとにかく食べものネタが多い。オデンの取り合いとか。だから子ども時代に「おそ松くん」を読むと、マンガに出てきた食べものを無性に食べたくなったりしましたね。
?77年に広済堂という版元から『ギャグほどステキな商売はない』という本(赤塚不二夫の生い立ちや、フジオ・プロの仕事ぶり、赤塚漫画の魅力などをイラストを混じえながら面白おかしく紹介した本)が発売されました。あれもおもしろかった。
◎編集が良かったですね。記事も細かくつくられていて感心しました。
?あの本で赤塚不二夫を取り巻く人脈のようなものがわかってきたんですよ。あの本を読んで、フジオ・プロという工房で、流れ作業みたいな工程を経て赤塚漫画がつくられていたということがわかってきました。
◎今回の取材では、どういうところを知りたいと思ったんですか? なにがきっかけで、この特集をつくろうと考えたかという話ですが。
?きっかけは映画ですね。赤塚不二夫のドキュメンタリー「マンガをはみだした男」(監督・冨永昌敬、配給・シネグリーオ)を観て。映画はかなり面白かったんですけど、証言者一人ひとりにもうすこし喋らせてあげたら、もっと面白くなるんじゃないかなと思って。
◎あの映画は、赤塚さんに縁のある複数の人達が赤塚さんの生涯を振り返るという、証言で構成されたドキュメンタリーでしたよね。何人くらい出ていましたっけ。
?40人くらいですかね。インタビューをおこなって、発言を要所要所カットして、ひとつのストーリーにあわせて繋げたという印象ですね。
◎証言者は担当編集、アシスタント、漫画家…。
?親族とか。
◎赤塚さんの満州からの引き揚げのエピソードから始まって、その全生涯について語られるというような構成でしたが、今回の本誌では「漫画の創作現場」にフォーカスを絞った感じでしたよね。
?漫画創作にかかわっていたアシスタントと編集者に絞り込んで取材をしました。
◎マンガがどうやってつくられたか。創作の舞台裏ということですよね。漫画がつくられていく様子。日々の出来事。アイデアがどこから生まれて、それがどういうふうにしてセリフになったかを明らかにしたいと。
1975年頃のフジオ・プロ(旧社屋)の仕事風景。多忙を極めていたこの時代、昼夜を問わず作業が続けられていた。右奥では赤塚先生がスチール棚を倒した上に布団を敷いて仮眠をとっている。左はアシスタント時代の河口仁さん(撮影=國玉照雄)
?8割くらいは、創作に関するエピソードに絞り込んで。あとの2割は赤塚さんの人生とか、ときどきの出来事を語ってもらった。
◎あの面白いマンガが、どのようにしてできたか?
?フジオ・プロという集団が時代の中でどんなふうに動いていたかに興味がありました。赤塚不二夫の傍にいた北見けんいち(元アシスタント、漫画家)さんや古谷三敏(同前)さんが、どんなふうに赤塚さんをサポートしていたのか。そのあたりを具体的に知りたかった。
◎それぞれのアシスタントの人たちが描いた赤塚評伝みたいな本は過去に何冊も出版されていますよね。
?マンガの本とかね。
◎長谷さんが書いたという赤塚さんの自伝とか。
?しいやみつのり(元アシスタント、漫画家)さんがマンガで描いた赤塚不二夫本とか。てらしまけいじさん(同前)も赤塚さんの思い出を描いてますね。
◎うん、そういう本は何冊かあるけど、今回は、それらの本にも書かれてなさそうなエピソードを集めてみたかった?
?そうですね。やっぱり、これまであまり表に出てこなかった人の話が面白かったです。伝説になるようなビッグネームの人物って、なんというか「テンプレート」みたいなものが自然に出来てしまうんだよね。たとえば、小林鉦明(元『少年キング』『少年チャンピオン』編集者)さんが、酔っぱらって線路で列車に轢かれそうになったとか、川に突き落とされそうになったとか、赤塚不二夫をめぐる面白エピソードってあるでしょう。その種の話は、テレビで放映された話がソーシャルメディアとかでどんどん再生されて、一種のテンプレ化しちゃうんだよね。仕方がないことなんだろうけど、そうすると最初のリアリティーがどんどん削られていくんですよ。
◎そうですね。かつて聞いたことがあるエピソードというように。
?元アシスタントのてらしまけいじさんは、ブログで自分の身辺や赤塚不二夫との思い出について書かれているんですけど、最近アップロードされていて面白いと思った話があって。フジオ・プロに、ある日、ホームレスが4人やってきたんですって。そのとき赤塚不二夫は不在で、眞知子さんという亡くなった2番目の奥さんが対応して、4人にメシを食わせてあげたり、風呂に入れてあげたらお湯がまっ黒になった──という話があるんです。それがある意味、いい話として、一種の「美談」のようにも伝わっているんだけど、奥さんが彼らを家に迎え入れた理由があって。4人が赤塚不二夫のサインが書かれたダンボールの切れ端を手に持ってきたのだそうです。それを見て奥さんが「本当なんだ」と納得して風呂に入れたらしい。いきなりホームレスが現れたら驚くでしょう。たぶん奥さんも積極的に風呂に入れたわけじゃないと思うんだよね。
◎赤塚さんが道端で出会ったホームレスに「ぼくの家においでよ」とか調子のいいこと言って誘ったわけですね。
?ホームレスの人たちが中落合で花見かなにかやってたところに赤塚不二夫が入っていって、一緒に酒を呑んで仲良くなって、「俺のところに遊びに来なよ」って、赤塚さんが名刺代わりにマジックインキか何かでダンボールにサインをした、と思います。
◎「このサインを見せれば大丈夫だからさー」って赤塚さんが言った情景がパッと頭に浮かびますね。
?それを持ったホームレスが4人、フジオ・プロにぞろぞろやって来たみたい。そういう細かいエピソードって重要だと思うんです。「赤塚不二夫のサインが書かれたダンボールを持ってきた」という描写があるとないではリアリティーに差が出るんですよ。グッとくる。それがないと、なんというか…。
◎単なるいい話で終っちゃう。
?モワ?ッとした美談で終っちゃう。それはやはり直接体験した人の話を聞かないとわからない細部なんですよね。
◎なるほど。
?「伝聞の伝聞」とかになると、そういう細かいところが削ぎ落とされて、ウェルメイドに物語化されてしまう。そういう意味で、今回現場にいた方々からリアリティーのある話がいろいろ聞けて面白かったです。そういう話を聞きたかったんですよ。そういうリアリティーみたいなことを感じたかったんですね。
◎なるほど。細かいところに真実は宿るっていうことですよね。
?そういうディテールは活字だからこそ拾えるのではないかと。そういう意味で、まだ可能性があると思うんですよね。ノンフィクションには。
◎武居俊樹(元『週刊少年サンデー』編集者。*本誌にインタビュー掲載)さんの著書『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』(文春文庫)のなかでも、高田馬場のトルコ嬢の源氏名を羅列して「バカ田大学の校歌」の替え歌をつくって合唱したというような笑えるエピソードが描かれていて、なんだか妙にリアルでした。
?生活のなかの肌触りみたいなものが描かれていると良いんだよね。グッとくるっていうか。
◎ノンフィクションをつくるうえでの、それが。
?要諦ですよ。
◎それがないと…。
?単なるプロット(あらすじ)みたいになりかねない危険性があると思う。俗っぽいハリウッド映画の「調子よく感動させる話」みたいになったらダメでしょう。それとは出来るだけ違うものにしたいというのはありましたね。
◎どんなエピソードを拾うか、その塩梅が難しいですね。瑣末なエピソードばかりでも退屈だし。
?古い本ですが、『チャーリー・パーカーの伝説』(ロバート・ジョージ・ライズナー著、晶文社刊)というオーラル・バイオグラフィーがあって、これなどは良くできていると思いました。関係者にチャーリー・パーカーの人物像を聞いていって、最終的に読者の頭のなかに人物像が浮かぶような構成になっている。
◎アンディ・ウォーホルの本とか。
?『ポッピズム ウォーホルの60年代』(パット・ハケット著、文遊社刊)。あれもそうですね。ファクトリー周辺のいろんな変人奇人が登場して、ウォーホルについて語っている。あれも面白かったし、ビートルズのメンバー以外の関係者が書いたビートルズ伝などにも、面白いものがあるんですよ。
◎細かいエピソードが書かれている。
?北見けんいちさんの証言も重要だけど、及川こうじ(元アシスタント、漫画家)さんとか、ふだん表に出てこないアシスタントが語る赤塚像やエピソードに興味がありました。
◎これまで世の中に出てこなかった視点から語られた赤塚さんの話ですからね。必ずしも美談だけではないけれど、証言を読み進めていくうちに赤塚さんの実像が浮かんでくる感じがしました。
?及川さんが夜中の2時頃にフジオ・プロで、ひとりで仕事をしていたら、赤塚さんが呑み屋から帰ってきて「キミ、何時まで起きている?」「まだ起きていますよ」「じゃあ*時間になったら起こしてくれ」と。それで2、3時間後に声がけしたら、ムクッと起き上がってガーッと仕事を始めたという。ああいう話が面白かったですね。リアルなんですね。
◎まるで自分もそこにいるような気分になりました。
?及川さんは本当に実感があったんだと思うんです。それが聞き手の心に伝わるからリアルに感じると思うんだよね。情報だけではなく感情が入っている。
◎及川さんの記憶に刻まれた些細だけど忘れがたい瞬間だったんでしょうね。
?そういう瞬間を可能なかぎり拾おうと努力をしました。本当は一回きりの取材でなく、もう一度取材ができていれば、また違う話も聞けたと思うけど。
◎もっと細かいエピソードが拾えたかも知れないですね。
?それが赤塚不二夫特集を企画した動機みたいなものですね。生誕80年ということで賑わっていたし、「おそ松さん」ブームもあったのでいいかなというタイミングだったので、赤塚特集をやりたいと思ったんです。
◎14人の関係者が語る赤塚像は当初想像していたとおりでしたか?
?あまりズレはなかったですね。長谷邦夫さん(元アシスタント。漫画家)がマンガ形式で描いた赤塚不二夫の伝記があって、それで「予習」はできていたから。
◎簡単に言うと、赤塚像ってどんな感じですか? たとえば、懐の深いというか?
?お調子者で寂しがり屋、でしょうか。寂しがり屋の面もあるから、切なく悲しい話も描けたのでしょう。今回特集に再録させてもらったマンガ(「もーれつア太郎 / ニャロメのいかりとド根性」)みたいな。
◎寂しがり屋というのは、常に誰かといたいという気持ちですかね。
?話を聞かせていただいた方は、みなさん大体そう言いますよね。赤塚不二夫とアシスタントが二人きりになると、お互い妙に気まずくなって、沈黙しながらメシを食べていたという話もありました。
◎二人でいるのが苦手なのかな?
?いつも共同生活していたトキワ荘時代に身についた習性じゃないかと、元マネージャーの横山孝雄さんは話してくれましたが。
フジオ・プロ社内の本棚でマンガの資料を探す赤塚先生。
1978年5月(撮影=國玉照雄)※本特集には未掲載の写真です
◎ほかに赤塚さんについて取材してみてわかったことってありますか? 決して偉ぶらない人だっていうじゃないですか。
?偉そうとか言う人は皆無でしたね。
◎偉い立場なのに威張らないって、なかなかできないことですよね。ほかに面白かったエピソードは、ありますか。
?これもてらしまさんからお聞きした話ですけど、フジオ・プロにEといういそうろうがいたそうです。ある喫茶店のウェイトレスの弟だったらしいけど、彼はフジオ・プロが好きで、棲みついちゃうんです。てらしまさんのマンガでは、Eはデフォルメされて「謎のホームレス」みたいに描かれているんだけど(笑)。夜中まで仕事をしていると腹が減る。でも、コンビニとか無い時代だから食べられない。そこでEは100円で買い置きしておいたカップラーメンを120円とかで、ゴザを敷いて売るんだって。
◎すごい(笑)!
?会社の仮眠用ベッドで寝泊まりしていたそうです。赤塚不二夫も「あいつ、だれ?」と聞いたりしてたそうですけど、「来るな」と言うわけでもなかったと。その話は今回書かなかったですけど、面白かった。Eは漫画家になりたかったけど、残念ながら話づくりのセンスがなかったそうで、いつのまにかフジオ・プロからいなくなったそうです。このへんが赤塚不二夫という人物の懐の広さなんだと思ったけど。いそうろうを積極的に許すような感覚というか。タモリさんも福岡から呼んで上京させて、自分のマンションに夫婦で住まわせていたというしね。
◎ヒッピーコミューンみたいですね。不思議なエピソードが、往年のフジオ・プロにはまだまだ隠れていそうですね。
?これもスペクテイターには書かなかったけど、Hという人の話も聞きました。外車のディーラーだった人で、赤塚不二夫と知り合ってそこを辞めて、フジオ・プロに住んでいたそうです。
◎フジオ・プロの社員になって?
?赤塚不二夫の運転手をやっていたらしい。てらしまさんに聞いたら「役職は与えられていたけど、実際は何もやってなかったんじゃないか」と言ってたけど。
◎給料はもらっていたんですか?
?そのへんはわかりません。赤塚不二夫の娘のりえ子さんの書いた本を読むと、彼女のお母さんは「座敷わらし」と呼んでいたらしい。「あの人、いつもウチの居間にいるよ。黙って、ずーっと、テレビばかり見てるんだけど…」って。あまりに黙ってテレビを見ているから、りえ子さんがあるときテレビのチャンネルをガチャガチャ変えた。それでも、じーっとテレビの画面を観ているんだって。
◎まさに座敷わらし!
?Hさんへの取材も、締切りに余裕あったら行ないたかったけどね。フジオ・プロが儲かっていたから、謎の社員が一人二人いても機能していたってことなのかな。「余裕があった」ということですかね。
◎現代の社会の常識では考えられないけど、赤塚さんも寛容だったんでしょう。
?経理の話は有名ですよね。税務署に勤めていた職員をスカウトしてフジオ・プロの経理担当にしたら、1億8千万だかを横領されちゃったという。
◎60年代から70年代頃にかけて起こった、週刊誌にも取り沙汰されたエピソードですよね。
?ビートルズの会社「アップル・レコード」(ビートルズが設立したレコード会社)などとも似ているところがあるんだよね。アップルは、ビートルズが売れて会社が儲かり金が入ってくると、わけのわからないやつがすり寄ってきて「無音のレコードを出しましょう」とか「若者向けのブティックを出しましょう」とか、様々の怪しい商売話がビートルズに持ちかけられる。金があるから思いつきで事業を展開したけど、その手の事業はだいたいうまくいかない。
◎今となっては笑い話だけど、当時の現場は大変だったでしょうね。
?「アップル・コープ」(アップル・レコードを運営する会社)みたいな感じでフジオ・プロを捉えられたらという気持ちも、ちょっとありましたね。
◎編集にあたっては複数のライターや漫画家さんが参加協力してくださいました。
?「第三章 欠陥・偏見的 アカツカ大事典」は、関西在住の清本さん(つヅ才プロ)が執筆担当してくれました。昭和時代のマンガが好きな人です。
◎プロの書き手ではないですよね。
?プロではないですね。同人誌をつくりつつ自分のマンガを描いたり、一方で仲間と自主制作映画を制作してます。漫画家が主人公の「劇画家殺し」という映画を作っていて、喫茶店などで上映しているそうです。
◎へぇ。
?「大事典」は清本さんに依頼したんですが、とてもじゃないけどひとりで全ては書けないということで、赤塚漫画で部屋が埋まってる先輩の野田さんと2人で、250項目ぐらい書いてくれました。
◎赤塚作品をより楽しむためのエピソード集。こんな出来事があったというのを、あいうえお順に並べたA to Z形式の記事。
?赤塚不二夫のテレビ出演ネタなども入れてくれて、広がりが出たと思います。清本さんはビデオマニアで、赤塚不二夫がテレビ出演したビデオをいっぱい持ってるそうです。
◎てらしまけいじさんが、いろんな写真を提供してくださったおかげで奥行きが出た気がします。
?これもてらしまさんにお聞きした話ですけど、フジオ・プロのアシスタントには、他にもいろんな変人がいたらしいですね。Fというアシスタントには盗癖があって、仲間の保険証を盗んで質屋にいれて換金したりでクビになったとか…。Sというアシスタントには様々な食べものを隠しておく習性があって、下駄箱とか床下に、筋子とかアジの開きを隠しておくんだけど、そのうち隠したことを忘れてしまう。
◎モズのような人ですね。川勝徳重さんが作画を手がけてくれた赤塚の伝記漫画「絵物語 赤塚藤雄のころ」も好評でした。
?彼は二十代半ばで、こういう古いタッチの絵が好きなんですよ。昔の紙芝居とか貸本漫画とか、そういう表現に新しさを感じているようです。
◎絵物語というのは、かなり昔の作画スタイルですか。
?戦後まもない昭和21?3年頃に流行りました。「少年王者」や「黄金バット」が有名です。こういうコマ割りをする人は他にいないですよ。
◎川勝さんとは、どうやって知り合ったんですか?
?知り合いが紹介してくれたんです。即売会の会場でその女性と喋っていたら、彼が真隣のブースで本を売っていた。川勝さんが編集している『架空』というマンガ同人誌があって、そこにも劇画を発表していて。あの絵のスタイルで現実の話を描いてもらったらどうかなと思って、赤塚不二夫の引き揚げ話を描いてもらったんです。写真とか資料を集めて、作画の参考にしていると思いますよ。あの作り方は、けっこうな手間がかかると思います。
◎軍用車の模型を組み立てたり、昔の写真を集めて描いてくださったみたいですね。
?面倒なことをやるから、いいんじゃないですかね。
◎満州からの引き揚げ話について初めて知った人も多かったようです。
?赤塚不二夫のお父さんが書いた本があって、ずいぶん使わせてもらいました。
◎表紙の顔は赤塚漫画の登場人物ですね。
?このキャラクターは峯崎さん(本誌デザイナー)が選んでくれたのです。
◎赤塚キャラの顔のパーツを再構成してつくられたような、不思議なキャラ。髪型も、なんとなくバカボンのパパに似ていますよね。
?このキャラクターにつけられた竜之進という名前は、北見けんいちさんのご子息の名前からとったという話ですが。
◎なるほど。まさか、こっちが先ということはないでしょうね。
?手塚治虫に「竜之進がんばる」という少年剣士が活躍するマンガがあって、北見さんはそのマンガの大ファンだったらしいんです。それで子供の名前に竜之進を採用したとか。
◎いろんなビハインド・ストーリーがありますねぇ。
?この表紙のキャラクターの名前が竜之進だとパッと言える人はいないんじゃないかな。僕も顔は知っていたけど、名前は知りませんでした。単に「カメラ小僧」として認識してましたね。
◎似た顔のキャラクターが赤塚マンガには複数登場するんですよね。それを探すのも楽しさのひとつというか。
?カメラを首からかけていると「カメラ小僧」になるけれど、かけていないと「竜之進」なのかな…?
と、まぁ、おもしろいエピソードや知らなかった事実が満載の赤塚不二夫特集号。
ギャグ漫画の神と呼ばれた天才作家を中心に、日夜せっせと机に向かいペンを走らせていた漫画家たちがどんな思いで創作活動に携わっていたか。貴重な歴史の証言に耳を傾けてみれば、赤塚漫画のファンはもちろん、漫画を読んだことがない人にも楽しんでもらえると思います。だから、ぜひ読んでみて欲しいニャロメー!
イベントのお知らせ
来る3月25日(土)、赤塚不二夫先生の生誕80年+1と、『天才バカボン』『もーれつア太郎』の誕生50周年を記念したフェスティバルが、渋谷区文化総合センター大和田にて開催されます。赤塚先生と縁のある漫画家やアーティストが多数出演する楽しげなイベントに、ぜひ足を運んでみてください!
チケット購入・問い合わせについては、渋谷区総合センターのホームページをご参照ください。
http://www.shibu-cul.jp/news.php?eno=949&frm=1
スペクテイター38号
特集:赤塚不二夫
「天才バカボン」「おそ松くん」などの傑作マンガを数多く世に送り出した漫画家・赤塚不二夫。あの名作はどのようにして生み出されたか? マンガ創作工房〈フジオ・プロ〉を影で支えてきた漫画家・編集者・アシスタントの証言を通じて、制作の舞台裏を明らかにした特集。
2017年1月31日
定価=1000円(税別)
発行=有限会社エディトリアル・デパートメント
http://www.spectatorweb.com/
■第一章 証言構成 フジオ・プロ風雲録
証言者(敬称略):
横山孝雄(漫画家)
高井研一郎(漫画家)
北見けんいち(漫画家)
橋本一郎(元朝日ソノラマ編集者)
武居俊樹(元『週刊少年サンデー』編集者)
五十嵐隆夫(元『週刊少年マガジン』編集者)
小林鉦明(元『少年キング』『少年チャンピオン』編集者)
とりいかずよし(漫画家)
及川こうじ(漫画家)
斎藤あきら(漫画家)
てらしまけいじ(漫画家)
河口仁(漫画家)
しいやみつのり(漫画家)
峯松孝佳(漫画家)
■第二章 作品再録
「もーれつア太郎 ニャロメのいかりとド根性」(1970年)
「天才バカボン おまわりポリ公のダジャレ合戦1」(1974年)
「ギャグゲリラ タレント候補 赤塚不二夫」(1977年)
■第三章 欠陥・偏見的アカツカ大事典
(つヅ才プロ編)
■その他のコンテンツ
・特殊漫画家・根本敬、赤塚漫画への愛を語る
・絵物語 赤塚藤雄のころ/構成・作画:川勝徳重
・赤塚不二夫 作品リスト
・なにから読むか? 赤塚不二夫ブックガイド/選・文:つヅ才プロ
・赤塚不二夫キャラクター80選/選・文:つヅ才プロ
□連載「雲のごとくリアルに 飛雲編 第二回」
語り=北山耕平
青野利光| TOSHIMITSU AONO
1967年生まれ。エディトリアル・デパートメント代表。大学卒業後2年間の会社勤務を経て、学生時代から制作に関わっていたカルチャー・マガジン『Bar-f-Out!』の専属スタッフになる。1999年、『スペクテイター』を創刊。2000年、新会社を設立、同誌の編集・発行人となる。2011年から活動の拠点を長野市へ移し、出版編集活動を継続中。