SAFE & CLEAN Vol.12
−下田ライフセービングクラブ20周年を振り返る−
下田ライフセービングクラブは、年間を通じて地域に根ざした活動をおこなうことを目的として1993年に設立しました。現在、パトロールしている海水浴場は伊豆半島南部の9カ所にのぼり、会員数は約280名と全国的にも大規模な団体となっています。2005年にはNPO法人化もされています。そして、昨年は創立20周年を迎え、記念パーティが開催されました。今回はそんな下田ライフセービングクラブの歴史を振り返ってみたいと思います。
下田の海は、長く続く白浜と海がキレイなこともあり、古くから外国人の別荘地として栄えていました。そのため、監視活動の歴史は古くからありましたが、救助活動に関しては未熟なものがありました。そんななか、遠藤義晴さんという方が立ち上がり、1977年に下田で日本サーフライフセービング協会(SLSAJ)を設立、国際機関であるワールドライフセービング(WLS)に加盟します。その翌年、下田の吉佐美大浜から日本のライフセービングの歴史がスタートすることになるのです。当時はライフセービングという考え方が浸透しておらず、地元でも懐疑的な目を向けられたようですが、日々の活動で信頼を獲得。徐々に活動範囲を広げていきました。
その後、1986年頃からメンバーが増え、下田の日本サーフライフセービング協会は拡大期を迎えます。その大きな理由となるのが、専修大学にクラブが誕生したこと。これをきっかけに各大学でもクラブが発足し、ライフセービングはひとつのトレンドになったのです。とはいえ、技術も用具も世界に比べればまだまだ発展途上。豪日交流プログラムで来日していたオーストラリア人からの指導や、世界大会出場者が見た現地の情報などを頼りにレベルアップを模索する日々でした。
「当時はすべてが見よう見真似でした。用具もレスキューボードしかなかった。競技用のボードが下田に多く導入されたのは1988年、オーストラリアの世界大会に出場して、そこで皆で買ってきたんです。本場オーストラリアでは、ヘリレスキューとか、ジェットボートとかを使っていましたからね、驚きました。技術の差も歴然としていて。世界大会のスイム競技の時は波も荒く、波の下を潜ってもしばらく真っ暗。本場のライフセーバーとは技術・体力の差が大きかったですね」と副理事長の松原さんは語る。
そんな試行錯誤のなか着実に進化をとげ、1992年にはライフセービング競技の世界大会が下田の白浜大浜で開催されることになります。メディアにも取り上げられ、ライフセービングが全国的なブームともいえる状況までに盛り上がっていきます。一方、地元での世界大会を経験したことで、下田では本場オーストラリアのように地域に密着したクラブを作りたいという思いが強まっていくこととなります。その思いが実現するカタチで、1993年に下田ライフセービングクラブが設立されるのです。
翌年からは、ジュニアプログラムもスタート。ジュニアから活動してライフセーバーとして続ける者も多く、その最年長はすでに35歳になっているほど。SHIPSが下田ライフセービングクラブを支援するようになったのもこの頃です。
1999年にはオーストラリアのサンシャインコーストに本拠地を構える名門クラブ「マルチドー・サーフライフセービングクラブ」との姉妹提携もスタート。南半球が夏になると、下田のメンバー10〜20人程度が約2週間に渡りトレーニング留学。また、日本の夏にはマルチドーのメンバーが約2週間指導をおこなうなど、この交流により技術の向上が飛躍的にアップしました。
2005年には特定非営利活動法人となるなど、着実な進歩を続けている下田ライフセービングクラブ。最後に、副理事長の松原光弘さんと、メンバーの牧野孝二郎さんに今後の意気込みを語って頂きました。
「地元の小中高生が参加するジュニアプログラムをもっと活性化していきたいですね。最近はジュニアの大会も盛り上がっていて、下田もいい成績を収めています。彼らがライフセービングを続ける土壌づくりをしていければと思っています」(牧野)
「大会などでは最近紙一重の差、個々のレベルアップを図っていきたいですね。あとは、とにかく海の事故をおこさない、未然に防ぐこと。そして、僕らの活動を多くの人に知ってもらって、下田の海に来て楽しんで欲しいですね。食べ物も美味しいですし、海もキレイですので、是非この夏は一度下田に遊びに来てください」(松原)