毎号、各ジャンルで活躍されている女性をゲストにお招きし、その生き方を伺う本連載。今回は、大河ドラマ『真田丸』で、憎まれ役となる茶々の乳母・大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)を演じた峯村リエさんが登場。最初はいつも通り、役者を志すきっかけなどを伺っていたところ、いつのまにやら話題は桑原茂一さんの偉業についてへとシフト。ひょんなことから、70?80年代におけるカルチャー裏話が満載です!
『真田丸』の台本を開いたときに、
小劇場俳優の名前が3人並んでいるのを見て感激しました(峯村)
桑原 今日のゲストは、僕の念願が叶い峯村リエさんをお招きしました。よろしくお願いします。峯村さんには、以前やっていた『コメディ・クラブキング』に何度か出演いただきましたけど、あれはクラブキングが細長いビルに入っていた頃でしたっけ?
峯村 いや、おうちのような場所でした。
桑原 寺山修司さんが住んでいらっしゃったところだ。
峯村 えっ、そうだったんですか? 知らなかった・・・。まさについ先日、寺山修司さんの『中国の不思議な役人』というお芝居を観に行って、その後にみんなで寺山修司さんの話をしていたんですよ。私は高校生のときに寺山さんの本をすべて読んだほど大好きで。あぁ?、もっとしっかり味わっておけばよかった。
桑原 あの場所には随分と通ってくれましたから、きっと寺山修司さんも見てくれていたと思いますよ。「あの人は昔から才能があった」って。僕もさまざまな俳優さんとお仕事をさせていただきましたけど、正直一番好きな女優さんです。『コメディ・クラブキング』で面白いのは、ほとんど峯村さんが出ている回。どんなにつまらない脚本でも面白くなるんですよ。
峯村 嬉しい! ありがとうございます。
桑原 なので、大蔵卿局として『真田丸』に出演されているのを観て感無量でした。
峯村 私も『真田丸』の台本を開いたときに、大堀こういち、吉本菜穂子、峯村リエと、小劇場俳優の名前が3人並んでいるのを見て感激しました。すごく嬉しかったですね。
桑原 あれ以来、普通に街を歩いていても声をかけられたりと大変でしょ?
峯村 いや、あの風貌で出演していたので、誰にも気づかれず逆にショックなくらいです(笑)。
桑原 そっかそっか、すごく作り込んでたもんね。
峯村 メイクはあまりせず、眉毛を白くしてシミをたくさん描いて、カツラも着けていましたし。これまでで最高齢の役でした。
最初は「違うな」と思った、劇団『健康』(現・ナイロン100℃)
桑原 ところで、峯村さんが芝居の道へ進もうと思われたきっかけは何だったんですか?
峯村 お芝居がすごく好きな母親で、小さい頃から芝居小屋によく連れて行かれていたんです。母は『劇団四季』を受たりしていたみたいで、でも当時は「女の子が劇団なんて」という時代だから両親に反対されたらしんです。
桑原 でも、それだけが理由じゃないでしょ?
峯村 直接的なきっかけは単純なんですよ。学生時代にイベント制作会社でアルバイトをしていて、そこの奥さまが文学座出身の女優さんで、すごくかっこよかったんです。たぶんその人に憧れたんだと思います。それで俳優の養成所に入ろうと決意するんですけど、お金もないので無料で通えるところを探して。そうしたら『五月舎』という養成所があって、そこで犬山イヌコさんや大堀こういちさんに出会うんです。
桑原 そこはどんなところだったんですか?
峯村 新劇の養成所でした。でも、誰も残ることはなく、卒業でバラバラになるときに、犬山さんが「ケラさんと面白いことやるから一緒にやろう」って誘ってくれたのが劇団『健康』(現・ナイロン100℃)。でも、当時ケラリーノ・サンドロヴィッチさんをまったく知らなくて、最初は外国人かと思ったくらい。
桑原 どんなことから始めたんですか?
峯村 ケラさんは有頂天というバンドの人だったこともあって、出演者も田口トモロヲさんとか大槻ケンジさんとか、有頂天のメンバーとか、そういう方たちだったんですけど。
最初にやらされたのはバーのママ役で、ホステスがみんな身体障害者みたいな。なので、最初は「なんで、こんなことをやるんだろう?」みたいなジレンマがありました。ムチを持ってホステスを調教したり、ベトちゃドクちゃんが出てきたり。
桑原 あぁ・・・、そこで「違うな」とは思わなかったの?
峯村 「違うな」と思ってましたよ。
桑原 あははは。それでも我慢できたのはなぜ?
峯村 1回出させてもらった後に、「違う」と思ってミュージカルをやる小さな劇団に入ったんです。でも、そこで「やっぱり、あっちだった!」と思い返して戻ったんです。
桑原 それは、何がどうあっちだったの?
峯村 最初は「なんでこんなことやらなきゃいけないんだろう?」と思っていたんですけど、ちょっと面白かったりもしたんですよね。道徳的観念的に「いけない」と思い込んでいただけで、感覚的には面白かったんです。
桑原 こっちのほうが、自分らしくいられるみたいな。
峯村 そうそう、そうですね。戻ってからは、もう28年間くらい続いています。最初から考えたら32年間。
桑原 そこまで続いたら、もはや王道ですよね。最初はカウンターだったんだろうけど。
峯村 作るものも変わっていきましたし、あとは慣れてきたのかな。
サブカルチャーとカウンターカルチャーは違う(桑原)
桑原 峯村さんはどこの生まれ?
峯村 吉祥寺です。
桑原 東京の人だぁ!
峯村 えっ、桑原さんも東京の方ですよね?
桑原 でも中3からなんですよ。のんびりとした岡山の血が入っている。
峯村 そうなんですね。でも、茂一さんといえば「クラブカルチャー」という言葉がぴったりくる。初めてお会いしたときも、「これがクラブカルチャーなんだ!」ってドキドキしましたもん(笑)。オフィスにあったCDや本がすべてそういう感じで。
ーー『ナイロン100℃』はケラさんが主催されていることもあって、サブカルのイメージが強いですよね。
桑原 自分の認識としては、サブカルチャーとカウンターカルチャーは違うんだよね。
峯村 カウンターカルチャーってなんですか?
桑原 僕は19歳のときから西麻布でお店(キャッチボックス)をやっていましたけど、それは1年半くらいなんです。そのあとに、『ローリング・ストーン』というアメリカのカウンターカルチャー誌の日本版に参加して。そもそも雑誌『ローリング・ストーン』は今でこそアメリカのメジャー雑誌ですが、当初はアメリカが初めて敗北することになるベトナム戦争の頃に、ヤン・ウェナーがフリー・ペーパーで配ったのが始まりなんです。当時、平均年齢19歳の兵隊が、ベトナム戦争でものすごく死んだわけ。そこから「僕らは何のために生まれてきたのか?」と問いかけるアメリカの反戦運動が生まれるわけだけど。そんな時代に、ジョン・レノンが兵隊役でコメディ映画に出演したことがあって、『ローリング・ストーン』誌はその写真を創刊号の表紙に使ったんですよ。要するに国に対してのカウンターを開始した。
峯村 なるほど。
桑原 だからサブカルとカウンターは違うんです。僕らは「抵抗文化」の影響を受けているから、つい「ラブ&ピース」とか言っちゃうんですよ。
峯村 サブカルチャーというのは?
桑原 王道とは別のサブな隠れた文化を提案する感じですよね。カウンターカルチャーは、権力に対するアンチ。だから、ロックミュージックなんです。
峯村 あ?。
桑原 今は芸能になっちゃいましたけど、ロックっていうのはもともとはカウンターカルチャーの音楽なんです。パンクには今でもそういうイメージがあるけど、ロックも同じ。「俺たちは戦争に行って死にたくない!」という叫びがロック。それでみんなヒッピーになって、山に行って、捕まって、刑務所に入れられるわけだけど。そこには試行錯誤もあって。まぁ、もともとはビートジェネレーションの流れから汲んでいるわけだけど。
『スネークマンショー』のベースにはカウンターカルチャーがあった
峯村 茂一さんはカウンターカルチャーなんですね。
桑原 もろに青春だったので・・・。
峯村 じゃあ、山の中に行ったりして。
桑原 いやいや、僕はヒッピーじゃないから。日本もベトナム戦争に巻き込まれましたけど、直接兵隊に行くわけじゃないから逃げる必要はなかった。でも、精神的には影響されていたから、「社会の王道の仕事なんかに就くもんか!」という。そういう人が、日本にもいっぱいいたわけです。
峯村 そういう方たちは、ニュースとかを見てそうなっていったんですか?
桑原 それもあるし。当時はインターネットもないから、いい加減な情報しか来ないんですよ。でも、『ローリング・ストーン』誌は最前線の情報だったから、完璧に汚染されましたね。『スネークマンショー』のベースもそこなんです。
峯村 なるほど。
桑原 とは言っても、小林克也さんにも伊武雅刀にもそんなベースはないわけです。あのふたりは、お芝居が天才的にうまい方たちだから。
峯村 やっと今わかりました。でも、衝撃的でしたもんね。
桑原 あれはYMOの方々がいてこそでしたから。僕らだけでは、誰も知らないままで終わったと思う。
峯村 皆さんとは、昔からお知り合いだったんですよね?
桑原 『ローリング・ストーン・ジャパン』誌は、加藤和彦(ex.サディステック・ミカ・バンド)さんから細野晴臣さんや高橋幸宏さんを紹介してもらったり、ムシュかまやつさんとかがすごく応援してくれて。
峯村 うわぁ、ビッグネームばかりですね。
桑原 皆さん素晴らしい方でしたよ。でも、カウンターカルチャーの洗礼を受けて、「常に反体制的な精神を持っている」という人はあまりいなかったかな。それよりも「かっこいい音楽をやる」という思いが強かったと思う。僕は『ローリング・ストーン』誌に汚染されていたから。でも、今になると「ラブ&ピース」がどれくらいいい加減なものだったかと挫折してますけどね、「弱いものだったな?」って。若いから仕方がないですよね、頭ツンツンでパンクだった時代もあるし。
峯村 えぇ?っ!
桑原 ‘77年のロンドン、パンク最前線にも行きましたよ。それを日本に持ってきて、『スネークマンショー』でセックス・ピストルズを日本で最初にかけたり。
峯村 すご?い! 知らなかった。セックス・ピストルズを日本で最初にかけたんですね。
初めて赤い口紅を買ったのがクリームソーダでした(峯村)
桑原 今日はそういう話をするために来てもらったわけじゃないんだけど(笑)
峯村 いやいや、私は今でも自分を奮い起こすときには、セックス・ピストルズを聴いていますよ。
桑原 マルコム・マクラーレンは本当にクレバーでしたね。セックス・ピストルズの後にロリータっぽいバンド(Bow Wow Wow)を手がけたの覚えてます? そのヴォーカルの子は14歳くらいだったんだけど、リッキー・ネルソンのFOOLS RUSH INをカバーしていて。僕はその曲が昔からすごく好きで、『スネークマンショー』のアルバムに入れたくてロンドンまで行って、ある人を介してホテルのバーでマルコムと話をしたんですよ。そうしたら、「(曲を使っても)いいよいいよ」みたいな感じで、そこらへんにある紙ナプキンに自分のサインをして「はい」って渡すんです(笑)。マルコムは最高の俳優ですよね。
峯村 でも、大丈夫だったんですか?
桑原 もちろんダメだよ。だから収録できなかった。ところで、峯村さんはどんな音楽が好きだったの?
峯村 もともとは50’sが好きで、『クリームソーダ』(現・ピンクドラゴン)とか行って、ホコ天でツイストを踊ったり。当時、『クリームソーダ』の人たちがバンド(ブラックキャッツ)をやっていたじゃないですか。
桑原 もう亡くなってしまったけど、山ちゃん(クリームソーダの創業者で、渋谷キャットストリートの名付け親でもある山崎真行)が僕に話してくれたのは。昔、『スネークマンショー』のアルバムにThe Rockats(ロカッツ)というロカビリーバンドの曲を収録したんです、ニューヨークまで契約に行ってね。実はその曲を聴いて、山ちゃんが「俺もロカビリーバンドをやろう!」ってなったみたい。「茂一さんがきっかけなんだよ」って言われたから。
峯村 それもまたすごい話ですね。ちなみに、私はバレンタインデーのときに、山ちゃんさんにチョコレートケーキを渡しましたよ。あと、初めて赤い口紅を買ったのが『クリームソーダ』でした。
桑原 へぇ?、それはいい話だね。
峯村 高校生のとき、ドキドキして買いましたね。当時の私はパステルカラーで、フレアスカートにポニーテール。すべてが夢の世界でした。
小林克也さんが巳(へび)年だから、スネークマンショーになった(桑原)
桑原 じゃあ、映画『アメリカングラフティ』とか好きだったの?
峯村 大好きでした。
桑原 『スネークマンショー』の元ネタは、映画『アメリカングラフティ』ですからね。
峯村 やっぱり! 同じ匂いを感じていました。
桑原 昔、『アメリカン・ファーマシー』という、アメリカのものばかり売っているスーパーマーケットが有楽町にあって。その息子と友だちで、18か19歳の頃かな、アメリカ大使館の中にある映画館で『アメリカン・グラフティ』をやっているから行こうって誘われたんですよ。映画を観る前にアメリカ国家が流れて、着席してから始まるっていう(笑)。そこでガーンと衝撃を受けて、ウルフマン・ジャックのラジオの世界の虜になったんです。そんなとき、「ウルフマン・ジャックにそっくりな人がいるから紹介しましょうか?」って知り合いに誘われて、そこで小林克也さんに出会ったんですよ。当時、アパレルブランドのVANが『スコッチ・バンク』というバーをやっていて、そのBGMを克也さんがウルフマン・ジャックのモノマネでやってたの。
峯村 へぇ?っ。
桑原 それで「こんなすごい人が日本にいるんだ!」って感動して。絶対にこの人と仕事したいと思って実現したのが『スネークマンショー』。克也さんが巳(へび)年だから、スネークマンショーになったんです。
峯村 そうだったんですか! 知らなかった?。
桑原 いや、こんな話じゃなくて。話を強引に戻すと、この連載は「日本という国で女性が働くのは大変だよね」と。だけど、そんなことを気にせず、好きな生き方をしている方々に登場してもらって、その人たちが普段感じていることを話してもらうことが、これから社会に出る人や、社会で悶々としている人たちに勇気を与えるよね、というのが趣旨なんです。
峯村 確かに、結婚せずにお芝居をやっていると「不幸」みたいなことを言われます。
桑原 えっ、まだ言われますか?
峯村 言われますよ。「子どもも産んでないし」とか、つい先日も言われたばかり。でも、それは仕方がないのかなと思っていて・・・。長い歴史の中で作られていった空気なので、この数年で「それは違う」と言っても変わらないのかなって。なので、女の人が仕事をする姿がじっくりと浸透することで、ようやく変わっていくんじゃないかなと思いますね。
桑原 先ほど、アルバイト先で出会った元女優の方に憧れて芝居の道に入ったと仰っていましたけど、その頃からかっこいい女性像は変わりましたか?
峯村 その方は、当時結婚されていたんですけど、自分の行きたい道を生きていてキラキラしていたんです。そこにすごく惹かれて。そう考えるとあまり変わっていないですね。最近、木野花さん、渡辺えりさん、あとは銀粉蝶さんとか、70歳前後の女優さんがたくさん出られているお芝居を観に行かせていただいたんですけど。みなさん素敵な感じに歳を取られていて、「自分もこういうふうになれたらいいな」と思ったんです。でも、きっとその方たちも「かっこよく歳を取ろう」とは思っていなくて、ただ一所懸命に生きていたら、そういうふうになったんだと思うんです。
「人に聞かずに、まずはやってみることよ」(峯村)
桑原 この連載ではよく話すんですけど、女性というのは年齢を重ねるほどにかっこよくなっていく。一般的に、女性がチヤホヤされるのは20代までで、それ以降は男性の目線が少なくなるみたいな社会じゃないですか。でも、僕は川久保玲さんのお仕事をしているときに気づいたんですよ、女の人はどんどんかっこよくなるんだって。
峯村 川久保さんは顕著な例だと思いますけど。
桑原 でも、パリとかに行くと、ぞくっとするほど色っぽいマダムがいっぱいいるじゃないですか。やっぱり、文化の成熟度と女性に対する認識度は比例するんじゃないかと思っていて。日本は文化があるように見えてあまりないというか、歪んだ国じゃないですか。
峯村 確かに、社会全体にそういう風潮がありますよね。だから、女性の方も30歳を過ぎると、男性の視線なんて感じていないようなフリをする。そんなことは考えないように自分をもっていこうとする。「もう、おばさんだから」とか、それを言わなきゃいけない感じもありますよね。
桑原 でも、それを言っちゃうと、自分の中にそういう気持ちが生まれちゃうからタブーだよね。
峯村 周りが決めつけてくるので、もういいやって感じになるんですよね。「はいはい、おばさんです」みたいな(笑)
桑原 そういうのは本当によくないよね。今、自分らしく生きている女性として、お芝居を志す若い子が相談に来たらなんてアドバイスをしますか?
峯村 「やめなさい!」って。
桑原 あははは。
峯村 こんなの目指しちゃだめですよ。まぁそれは冗談としても、「人に聞かずに、まずはやってみることよ」と言いますね。
桑原 それはそうだよね。自分は裏方だから舞台に出ることはないですけど、あるとき一度だけ役者さんと同じ場所から客席を見たことがあるんです。そのときに、「一度味わったら抜け出せないのかもしれない」と思ったんですよ。舞台に立つというのは、麻薬みたいなものかもしれない。
峯村 お客さんの拍手もまた麻薬なんです。
桑原 その欲望が高じて大河ドラマまで出て、日本国中から「こんな嫌な女はいない!」って言われるすごさ。これは素晴らしいことですよ。
峯村 あははは、相当嫌われたみたいですよね。友だちから「SNSを見ないほうがいい」と言われましたから。あとは人との出会いですね。桑原さんもそうですけど、知り合って広がっていく。
桑原 今後、お芝居以外でやりたいことはありますか?
峯村 猫を飼っていまして、その写真を毎日サイトにあげています。
桑原 文章を書くのも好きなんじゃない?
峯村 好きですね。
桑原 やっぱり! 今度ぜひ『ディクショナリー』で書いてください。今日は脱線して僕の話が多かったですけど楽しかったです。ありがとうございました。
- My Way
- Sid Vicious
- さいしょぼくはひとりだった
- 友部正人
両方ともうちに来たばかりの時の日差(ヒザ)(飼い猫)を思い出させる曲なのです。私に触るんじゃないわよっていう瞳と、その中にとても切ない孤独を感じました。今は少々優しい瞳になりましたけど、我が道を行く感じは余り薄れてはいません。
そこが大好きです。
そして今でもたまに見せる孤独感溢れる眼差しになぜか安心してしまいます。
なので私の曲は「聴くと日差を思い出す曲」です。
こなさん、みんばんは、選曲家の桑原茂一です。海賊船、Pirate Radio、今夜のゲストは峯村リエさんをお迎えしてお送りしました。
一般的には、NHKの大河ドラマ「真田丸」の大蔵卿局役で注目を集めた実力派の女優さんですが、実は、えも言われぬ笑いのセンスも抜群で、その昔、私の制作するラジオ・コメディ番組の常連女優さんでもありました。
そんな私の大好きな女優「峯村リエ」さんが実は、意外なことに50年代に流行ったロックンロールが大好きで、なんとあの、代々木公園のホコ天で、裾が大きく広がるフレアスカートで踊っていたとか。しかも、私の友人でもある今は亡き、山ちゃん(山崎真行)が作り上げたロックンロール帝国「クリームソーダ」。その本店のショップで最初に買ったのが、真っ赤な口紅だったと聞いては…すこぶる胸キュンな青春のいい話?ですね。
さて、pirate radio 海賊船の舵取り役の私も、実はルーツは50年代の黒人音楽なんです。
知る人ぞ知る不滅の青春映画「アメリカン・グラフィティー」がそのきっかけなんですが、その映画でも話題になった大変ロマンチックな黒人音楽を「doowop」と呼びます。以下、ウィキペディアウィキペディアからの引用です。
ドゥーワップ?(doo-wop) はポピュラー音楽における合唱のスタイルの一種。ドゥワップ、ドゥー・ワップ、ドゥ・ワップとも表記される。1950年代半ばから1960年代初頭のアメリカ合衆国で隆盛し、数多くのコーラス・グループが生まれた[1]。フランク・ザッパやルー・リード、ジョージ・クリントン、鈴木雅之、山下達郎らは、熱心なドゥーワップ・ファンとして知られている。
というわけで、今夜は私の大好きな「 doo wop 」の名曲をたっぷり紹介させて頂きます。
題して、「 Life is but Dream 」ごゆっくりお楽しみください。らたまいしゅう。
「Life is but Dream」 by Moichi Kuwahara
峯村リエ | Rie Minemura
女優。東京都出身。ナイロン100℃及びシス・カンパニー所属。
NHK大河ドラマ「真田丸」で茶々(竹内結子)の乳母・大蔵卿局を演じその存在感が話題に。舞台をはじめ、映画やTVドラマなどで活躍中。
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