日本のみならず世界中から注目を浴びたピチカート・ファイヴのヴォーカルとして活躍後、現在は渋谷系スタンダード化計画のもと『野宮真貴、渋谷系を歌う。』活動をされている野宮真貴さん。シンガーとしてはもちろん、ファッショニスタとしても女性の憧れの的。今号は、そんな野宮さんのこれまでのヒストリーを中心に、桑原茂一さんとのホットなトークが展開されています。
東京からの転校生ということで人気者になったんです
桑原 野宮さんは小さい頃から歌がお好きだったのですか?
野宮 そうですね、小さいときから歌うことが好きで。
桑原 人前で歌って褒められたり、拍手された曲って何か覚えてらっしゃいますか。
野宮 拍手されたのは覚えてないですけど…。性格が大人しくて内向的だったんですよ。家では歌っているんだけど、小学校ではほとんど喋らない子どもでした。
桑原 そうなんですね、それがどこでブレイクしたんですか。
野宮 小学校5年生のときに、東京から北海道に転校することになって。東京からやって来た転校生ということで人気者になったんです。幼い頃から洋服が好きだったので、着ている服もみんなとはちょっと違ったりしていて。その頃は、デザイン画を自分で描いて母に作ってもらってたんです。60’sなピエール・カルダンのジャンパースカート風なのとか。
桑原 それはすごい。
野宮 髪型も自分で考えてカットして、それをクラスメイトが真似したり。その頃はまさにファッションリーダーでした。そんなふうに、最初はファッションから少しずつ自分に自信が生まれて、性格が変わっていったんです。でも、一番大きかったのは中学でロックを聴くようになってから。
桑原 へぇ、どんなものを?
野宮 最初はカーペンターズとかセルジオ・メンデスとか。それからビートルズへ。
桑原 それはご両親の影響ですか。
野宮 当時、家に初めてステレオがやってきて。父親はクラシックを聴いていましたが、それとは別に当時流行っていた洋楽のレコードを私のために買ってきてくれたんです。
桑原 でも、セルジオ・メンデスを買って来てくれるなんて、お父さまはモダンな方だったんですね。
野宮 店員さんにおすすめを聞いて買ってくれたんじゃないかな。その真相は聞いたことないですけど。そうだ、あとミッシェル・ポルナレフの『シェリーに口づけ』が流行っていた年で。そのシングルを聴いたとき「世界には素晴らしい曲がたくさんあるんだな」と思ったんです。英語もポルトガル語もフランス語もわからないので、耳でコピーをしてカタカナに書き起こして歌っていました。
桑原 ミッシェル・ポルナレフなんて、野宮さんのイメージずばりじゃないですか。
野宮 3年ほど前から『野宮真貴、渋谷系を歌う。』をテーマに、90年代にヒットしたピチカート・ファイヴやフリッパーズギターの曲以外にも、渋谷系のルーツとなった過去の名曲をカバーして歌っています。でも、初めて聴いていたレコードが、実は渋谷系のルーツだったことに気づいて、ちょっと驚いているところです。
桑原 お父さまに感謝しないといけないですね。
野宮 そうですね。あのレコードは実家にまだあるのかなぁ。
桑原 家にやってきたステレオは、いわゆるスピーカーがふたつある家具調のやつですか。
野宮 そうそう、家具調の。当時流行っていた4チャンネルステレオでした。
桑原 子ども心にスターになりたいなという気持ちもあって。
野宮 ありました。当時、NHKで『ステージ101』という、オーディションで選ばれた若い男女総勢40名ほどで歌って踊るという番組があったんです。オリジナルだけでなく、ビートルズやサイモン&ガーファンクルなども歌っていて。私はその番組のファンで、いつかオーディションを受けたいと思っていました。でも、その年齢になる前に終わっちゃって。
ハードロックを聴くようになって、高校生でバンドを組んで
桑原 歌が好きだったら一度はスターに憧れますよね。
野宮 そのうちにハードロックにハマって、高校生でバンドを組んだりして。KISSのファンでした。
桑原 えっ!
野宮 今日の靴もKISSモデル。来日するとメイクして観に行っていましたよ。
桑原 それはいくつくらい?
野宮 高校1年生くらいかな。でも、自分の声はロックには向いていないので、当時はギターを弾いていました。そうこうしているうちに時代が変わって、パンクやニューウェーブが出てきて、プラスチックスの大ファンになったんです。佐藤チカさんに憧れて、それまではデニムのベルボトムに長髪みたいなハードロック少女だったんですけど、髪を刈り上げて、トンガリキッズに(笑)。それから女の子バンドを組んで、テクノポップな音楽でオーディションを受ける日々です。それが、’79年とか’80年くらい。
桑原 そうなんだ。
野宮 時代がガラッと変わった実感があります。ファッションも本当に新しいと思ったし、カッコよかった。そしてやっと自分が歌える音楽に出会った。そこからヴォーカルスタイルが確立して、今に至るって感じです。
桑原 そういえば、以前ソロ時代のCDが再発されていませんでした? 僕はピチカートからしか知らなかったから、デビューもそこなのかと勝手に思っていたんです。
野宮 '81年にソロ・デビューしているので、今年でデビュー35周年(笑)
桑原 ソロのあの感じは、誰かが野宮さんを作りあげたんですか。
野宮 いえ、自分の意見も結構聞いていただきました。プロデューサーは鈴木慶一さんで、演奏もムーンライダーズ。
桑原 デビューのきっかけはどんなカタチだったんですか。
野宮 デビュー前にパズルという女の子バンドをやっていて、色々なオーディションを受けていたんです。
桑原 その頃は学生?
野宮 学生のときもオーディションは受けていましたけど、実は一年間だけOLをしながらやっていて。
桑原 どんな会社に入ったの?
野宮 コンピュータープログラマーの派遣会社の、営業部の電話番みたいな。
桑原 へぇ?。
野宮 5時でタイムカードを押して、そのままスタジオへ行って練習、の日々でした。
絶対にチャンスを逃したくなかった
桑原 もうアタマのなかは音楽しかない感じだ。そうすると、オーディションを受けていると何かしら声がかかるものなんですね。
野宮 そのバンドはコンテストで準優勝とかいいところまではいくんですが、もう一歩というところで。そんな中、私だけが引き抜かれることになってしまうわけですよ。
桑原 よくある話ですよね。
野宮 本当に子どもの頃から歌手になるのが夢で…。
桑原 葛藤があったんですね。
野宮 葛藤はありましたけど、「ごめん!」っていう。
桑原 でも、周りもわかってくれますよね。
野宮 とはいえ、一年くらいは口をきいてもらえなかったり。
桑原 そこで決心した一番の理由は何かありますか? 不安とか葛藤とかがいろいろあった思うんですけど。
野宮 いえ、即答でした。経緯としては、バンド仲間のハルメンズが先にデビューをして、レコーディングのコーラスに呼ばれてビクタースタジオに行ったんです。そのときのディレクターから「デビューしてみないか」と電話がかかってきて。すぐに「はい、やります」と答えていましたから。絶対にチャンスを逃したくなかったんですね。
桑原 そのディレクターさんは、野宮さんをどうデビューさせようとしていたのですか。野宮さんは、プラスチックスのチカみたいな感じをやりたかったわけですよね。
野宮 その方は私がやっていたバンドも観に来てくれていて、やりたいこともわかってくれていました。ファッションやモードが好きな方で、リチャード・アベドンのサイン入り写真集を自慢気に見せてくれたり。私が目指す「歌とヴィジュアル」というところは理解してくれましたね。
桑原 それなら不安はなかったですね。
野宮 当初から鈴木慶一さんがプロデュースすることは決まっていて。でも、当時の私はあまりムーンライダーズが好きではなくて(笑)。というのも、よくニューウェーブのバンドが日比谷の野音に集まってライブをしていたんですけど、20歳そこそこの私には他のバンドよりもオジさん度が高く見えたというか…。今考えると、慶一さんは20代だったのにね。
桑原 なんか時代と合ってないんじゃないか? と思ったんでしょ。
野宮 そうなんですよね。DEVOみたいな仮面を付けてライブをしていましたけど、なんだか違和感を感じてたんですよね。
桑原 あはは、わかる気がします。
野宮 私のデビューは、アイドルではないですけど「テクノ歌謡」という言葉を作って売り出すことになったんです。
桑原 あのソロアルバムはアイドルっぽいですよね。でも、歌が好きだからレコーディングをしているのは、楽しくて仕方がなかったわけですよね。
野宮 何もかもが初めてで楽しかった。でもアルバムは鳴かず飛ばず。とってもいいアルバムなんですけどね。名盤だといまでも思っています。いろんな方に曲を書いていただいて、ムーンライダーズも実験的なことを私のアルバムでやっていて。佐藤奈々子さんが痩せっぽちだった当時の私のイメージを曲にしてくれたのが『ツイッギー・ツイッギー』。
桑原 あの曲は、その後のピチカートも含めて象徴的ですよね。
野宮 ピチカートでカバーをして、海外で一番ウケて有名になった曲です。
桑原 実は佐藤奈々子さんもこの連載に出ていただいているんです。その頃はもう写真を撮ってたのかなぁ。
野宮 そうなんですか! 奈々子さんにもここ数年でまたお会いする機会があって。当時はもうカメラを始めてらっしゃいましたね。だから、モデルをやったこともありますよ。
事務所もなくアルバイトをしながらの生活
桑原 そうなんだ。それで、ソローデビュー後は、どんどんやりたいことに近づいていくわけですか。
野宮 ところがね、ファーストアルバムがまったく売れなくて1年で契約が切れちゃうんです。
桑原 挫折の時代がくるんですね。
野宮 そう、挫折の時代。それで、デビューライブのときにバックバンドを務めてくれた、中原信雄くんと鈴木智文くんの3人でポータブル・ロックというバンドを組んで、2年間ずっとデモテープづくりをしていましたね。鈴木慶一さんの実家にあるスタジオをお借りして。当時、機材を新しく入れたばかりで、試運転を兼ねて弟さんの鈴木博文さんが手伝ってくれて。事務所もなくアルバイトをしながらの生活でしたから、よく慶一さんのお母さんにごはんをご馳走になっていました(笑)
桑原 あははは。
野宮 その後、表参道の同潤会アパートにあったムーンライダーズオフィスにお世話になりました。ポータブル・ロック名義でアルバムを2枚出して、それもまたあまり売れなくて。その時代はCMソングの歌唱をやっていました。大小合わせると100曲くらい歌ってるんじゃないかな。あとはシンガーの方々のバッキングボーカルとか。その経験はいまでも大いに役立っています。音楽を続けたいと思っていたので、音楽に関わる仕事にこだわっていましたね。
桑原 でも、その頃はCMソングも需要があったでしょうし、マーケットも活性化していたから意外と生活は良かったんじゃないですか。
野宮 そうなんですよね(笑)。新人なのでギャラは安かったですけど、バブルの時代だからCMのお仕事も週に何本も入って。
桑原 OLをやってるよりは優雅だったと思いますよ。ちなみに、その頃のファッションはどんな感じだったのですか。
野宮 かなり個性的なファッションでしたね。でも、80年代の後半はLAメタルにハマっちゃって(笑)。
桑原 えっ?
野宮 そのときはすごくロックっぽい格好をしていたり。
桑原 ある音楽が好きになると、その影響でファッションも変わるんですね。
野宮 そうなんです。
桑原 でも、80年代でみんなボーンと行ったときに、野宮さんはモワッとしていた。
野宮 そう、その時代は全然ダメで。
「やっと自分がやりたいことが表現できるところにきたな」って気がしました
桑原 そこから渋谷系になるのは、どういう感じだったのですか。
野宮 色々なアーティストのバックヴォーカルをやっているなかに、ピチカート・ファイヴもあって。そもそもは、ポータブル・ロックの鈴木智文くんが小西さんと同じ青学の音楽サークル仲間で。それで、彼がレコーディングに参加するというのでスタジオに遊びに行った時に、初めて小西さんと出会っていきなりコーラスを2曲頼まれて。
桑原 そういう出会いなんですね。
野宮 当時のピチカートは田島貴男くんがメインヴォーカルで、私はライブのコーラスで参加したり。そして彼がオリジナル・ラブに専念することになって、私がメインヴォーカルに誘われたんです。加入したのが’90年。
桑原 まさに渋谷系がドーンといくときですね。僕も’87年くらいから『dictionary』を始めていて、やっぱり渋谷のHMVで配っていましたから。そのうちに、だんだんとすごい勢いで無くなるようになって、最終的に200?300部が2日間くらいで消えるようになりましたから。では、ピチカートに声がかかったときは「やった!」と思ったんですか。
野宮 その頃、ポータブル・ロックの活動も細々としていて。もう一枚ミニアルバムを出そうと新曲も書いていて、歌詞を小西くんに頼んでレコーディングまでしていたんです。同じ時期にメインヴォーカルに誘われて迷いましたね。でも、「新しいチャレンジ!」と思って。またそこで決断をするわけなんですけど。
桑原 やってみて「私の居場所はここかも!」という感じはあったのですか。
野宮 ありましたね。「やっと自分がやりたいことが表現できる」と思いました。
歌を歌うことだけをシンプルに考えてずっと続けてきた
桑原 僕もいろいろと成功された方を見てきましたが、皆さん何故か最終的に自分の居場所みたいなところにたどり着くんですよね。それは本当に不思議だなと思うんです。野宮さんは、自分の思いが完成するところまで来れた理由は、どこにあったと思いますか。
野宮 ひとつは諦めずに続けてきたということ。’80年代には、親や友達から「いい加減、気が済んだんじゃない?」とか言われていましたから。でも、「絶対このままでは終わらない!」と続けて。ある程度かたちになるまで、10年くらいかかりましたけど(笑)。私は曲を書かないので、歌とヴィジュアルしかない。つまり、歌手として演じるタイプなので、うまくフィットする強力なプロデューサーに出逢えたら、自分を100%発揮できる自信があったんだと思う。それが小西さんだったんですね。
桑原 これからバンドをやろうとしている人たちに、言ってあげられるサジェスチョンは何かありますか。
野宮 う?ん、私の場合は歌を歌うことだけをシンプルに考えてずっと続けてきました。あとは、表現するときに人をちょっと驚かせるとか、びっくりさせるとか、ドキッとさせるとか、何か引っかかるような自分にしかできないものを出していくことですかね。
桑原 映画とか音楽とか、活動を続けていくなかで何か具体的な支えになったことはありますか。
野宮 私にとってのスーパースターというのは、亡くなったデヴィッド・ボウイみたいな人。ヴィジュアルと音楽が一緒になって、ファンタジーの世界を作りだしている。そういう世界観が好きで、自分もシンガーとしてそういうものを提供したいとずっと思っていました。
桑原 そうか、デヴィッド・ボウイがお好きだったんですね。
野宮 好きでした。ビートルズのあとに好きになったのはグラムロックでしたから。
桑原 不思議なもので、亡くなって改めてデヴィット・ボウイを振り返ると、そのすごさに気付きますよね。
野宮 そうですね。
桑原 生前から好きだとはわかってはいても、そんなに注意深くは考えず。いざ亡くなると、とんでもない人だったなって。
野宮 ニュースが飛び込んできたときは信じなかったですね。もともと宇宙から来たと信じていたし。亡くなったのではなく星に帰ったと思っています。
桑原 うん。野宮さんはこれからの日本の音楽シーンをどう見られていますか。
野宮 新しい音楽をそれほど聴いているわけではないですが、若くて才能のある人たちがどんどん出てきていますよね。みんなよく音楽を聴いているし知っていますからね。すごくレベルは上がっていると思います。
桑原 昨年、レコード会社アルファの歴史を振り返るイベント(アルファミュージックライブ)でご一緒させていただきましたけど、野宮さんはプレゼンターをされていて。でも、ああやって日本の音楽業界を俯瞰して見るとすごいなと思いますよね。
野宮 すごいですよね。私たちの世代は海外への憧れが大きかったですけど、今の若い人たちは洋楽よりも国内の音楽を聴いてミュージシャンを目指している人も多い。今回、自分自身が改めてアルファミュージックのアーティストからも多大な影響を受けていたことを確信しました。『野宮真貴、渋谷系を歌う。』は渋谷系スタンダード化計画でもあって。“渋谷系”から20年経って、そろそろスタンダードナンバーとして歌ってもいいのではないかと思いまして。“渋谷系”というのは実は音楽のジャンルではないのですが、共通点としては過去の名曲をすごくリスペクトしていて、それを自分たちなりに表現していたと思うんです。私はシンガーとして、それらのルーツも含めて、歌い継いでいくのが、ひとつの使命かなと思っています。
桑原 それは大事なことだと思いますよ。先人には越路吹雪さんとか、日本人シンガーとしてある時代を築いた方々がいて。あの方たちも、いまも色あせないじゃないですか。それも日本の音楽文化のひとつですし、渋谷系を歌うということも、自分たちが作ってきたものを評価するという意味においても大事ですよね。素晴らしいことだと思います。
野宮 亡くなってから気づくのでは遅いというか。生きているうちにリスペクトしていかないと。
メッセージを伝えるというより、聴いてくれた人が何かを感じ取ってくれたらいい
桑原 最新アルバム『世界は愛を求めてる。』では、小西さんが日本語の訳詞をされていて、時代とうまく距離を保ちながらラブ&ピースな曲を歌われていますよね。最近は日本もいろいろと危険な感じになっていると個人的に思っていて。そういう空気感はエンターテイメントにも影響を与えると思うんです。そのへん野宮さんはどう感じられていますか? 僕はすごく小西さんらしい言い方で「世界が愛を必要としている」ことを伝えようとしているのかなと思ったのですが。
野宮 そういう意味もあって、バート・バカラックの曲は絶対に入れたかったんです。さまざまな名曲がありますけど、『What The World Needs Now Is Love』を選んだのは、スウィング・アウト・シスターのコリーンとデュエットしたくて、彼女もこの曲が大好きで。いまの時代のメッセージになると思ったので、アルバムのタイトルにもしました。小西さんの訳詞は昔から素晴らしくて、難しい言葉を使うことなく深みが感じられる表現ができる人なんですよね。私は歌うことでしか表現できませんが、自分の役割として「すごくメッセージを伝えるというより、聴いてくれた人が何かを感じ取ってくれたらいいな」と思いながら歌っています。
桑原 あの訳詞を読んだときに見事だなと思ったのは、小西さんは直接的に戦争反対とかいうのは好きじゃない人だと思うんです。だけど、そういう気持ちがあることを、ちゃんと伝える気のある人だなって。よく聴くと相当ブラックですよ。まるでそんなことは関係ないように歌っている、野宮さんもすごいと思いましたけど。
野宮 それが私のヴォーカルスタイルの特徴のひとつなんです。哀しい失恋の歌でも、あまり感情移入し過ぎずにさらっと歌うということで、逆にせつなさがこみ上げるということもあるのかもしれません。もちろん、受け取る側の感じ方ですけれど。
桑原 そのサジ加減が、ヴィジュアルでどう表現するのかというこれまでの活動も含めて見事だなと思いました。たぶん、カッコよくないと伝わらないですよ、すべてのことは。そのレベルが時代とともに上がってきているというか。今回の信藤さん(アートディレクター)のアプローチも、これまでの活動を踏まえたうえで、いまの野宮さんの位置と時代みたいなものを的確に捕らえていて。かっこいいなと思いましたね。
50代、60代、70代、それぞれのミニスカート&網タイツのスタイルが素敵だった
野宮 いつでも、「いまの自分が一番いい」って言いたいですよね。
桑原 そこが素晴らしい。
野宮 かっこいいことをずっとしていきたいと思いますし、大人としての品格も必要ですし。それから、ユーモアも大事ですね。
桑原 他の国にはない、東京のモダンなものを野宮さんは代表されていると思いますよ。
野宮 ほんとですか? だといいな。すごくうれしいです。
桑原 これまでは消費社会の戦略的な側面もあって、若い人たちをピークにしてきたと思うんです。でも、「年齢を重ねるほど人は魅力的になるんだ」ってことをヨーロッパの社会のように考えられる時代になってきたのかなって。そういう代表としても、野宮さんの存在はすごく大事だなって思いますね。
野宮 うれしいです。頑張ります。本当にそうありたいと思いますし、かっこいい大人のお手本になりたいですね。そういえば、先ほどもお話しに出たアルファミュージックライブで、雪村いずみさんとユーミンとコシ・ミハルちゃんの私服が、3人ともミニスカートに網タイツだったというのに衝撃を受けたんです。私もピチカート時代はミニスカートがトレードマークでしたけど、50代になってからは封印していたんです。というのも、頭の中の自分像と、鏡に映っている自分とのギャップがありまして(笑)。でも、あのときに50代、60代、70代、それぞれのミニスカートのスタイルが三人三様ですごく素敵だった。そういった憧れのお手本があることがとても大事ですね。私も大いに刺激を受けて、いまの自分に似合うミニスカートの着こなしを研究してみたくなりました。
桑原 大人のミニスカートっていいコピーですね。素敵なフレーズが出たところで、そろそろお時間になりました。今日は本当にありがとうございました。
- シェリーに口づけ
- ミッシェル・ポルナレフ
はじめて買ってもらったレコード。当時、日本でもヒットしていました。フランス語を耳コピーしてカタカナに書き起こし歌っていました。
- 恋人中心世界
- ヤング101
子供時代大好きだったNHKの番組”ステージ101”のオリジナル曲。
作・編曲:中村八大
今、聞いてもおしゃれなソフト・ボッサ歌謡。
- Top secret man
- プラスチックス
日本のバンドで最も影響を受けたのがプラスチックス。佐藤チカさんは憧れでした!
- Love so fine
- Roger Nichols & The Small Circle Of Friends
渋谷系の大ルーツ。永遠の名曲。
- Twiggy Twiggy
- ピチカート・ファイヴ
海外進出をして、世界のファンに一番支持された曲。81年のわたしのソロアルバム”ピンクの心”で佐藤奈々子さんがわたしをイメージして書いてくれた曲。のちに、ピチカートがカバー。
- 世界は愛を求めてる(日本語バージョン)
- 野宮真貴
バート・バカラックの名曲。わたしのソロ・アルバムではスイングアウト・シスターのコリーンとデュエット。ボーナストラックのために、小西康陽さんに日本語訳詞をしてもらったもの。今の時代に必要なメッセージ。
いかがでしたか?今夜の「 Pxxxx Radio 」。
東京の一番とんがった街、オシャレな街、「渋谷」から、戦後の日本のポピュラー・ミュージック界に一大旋風を巻き起こした音楽ムーブメント。その名も「渋谷系」。その渋谷系から生まれた大ヒット曲「東京は夜の7時」。今夜の『Pxxxx Radio』のゲストは、東京のモダンなスタイルを代表する女性シンガー、野宮真貴さんでした。60年代の未来的でモダンなファッション・スタイルを継承する野宮真貴さんは、最もモダンな東京を代表する女性シンガーだと思います。そして今夜の選曲もまさに野宮真貴さんのイメージ通りの素敵な選曲でした。野宮さん、素晴らしい選曲をありがとうございました。
さて、ここからは、私の選曲をお送りいたします。
野宮さんの後を受けて、同じく私のルーツでもある60’sの時代からの選曲です。選曲のアクセントは、野宮さんのインタビューにもあった、男性にもうれしい網タイツとミニスカートはもちろん、60’sのファッションに注目。そして、ダンス、ダンス、ダンス。ごゆっくりお楽しみください。
- These Boots Are Made for Walkin'
- Nancy Sinatra
- Be My Baby
- The Ronettes
- Baby Love
- The Supremes
- Dancing In The Street
- Martha and the Vandellas
- I Say A Little Prayer
- Aretha Franklin
- Walk On By
- Dionne Warwick
最後は野宮真貴さんの「世界は愛を求めてる」と同じ作曲家バート・バカラックの不滅の名曲です。私の最も好きな女性歌手 Dionne Warwickの歌う「Walk On By」でお別れです。らたまいしゅう。桑原 茂→
<今回のプレイリスト>
桑原茂一のPxxxxRadio
https://www.youtube.com/playlist?list=PLuEwH_JUmALzYpsdOczeIwZwn8SPDVEWE
野宮真貴 Maki Nomiya
「ピチカート・ファイヴ」3 代目ヴォーカリストとして、90年代に一斉を風靡した「渋谷系」ムーブメントを国内外で巻き起こし、 音楽・ファッションアイコンとなる。 2010 年に「AMPP 認定メディカル・フィトテラピスト(植物療法士)」の資格を取得。現在、音楽活動に加え、ファッションやヘルス&ビューティーのプロデュース、エッセイストなど多方面で活躍中。
◆オリコン・ウィークリー・アルバムランキング、ジャズ部門1位(2015年11月23日付)
ニュー・アルバム「世界は愛を求めてる。?野宮真貴、渋谷系を歌う。」好評発売中
◆全国コスメキッチン リップ部門2015年間売上1位
野宮真貴プロデュースのMiMCオーガックコスメ「サプリルージュ」発売中
more info : www.missmakinomiya.com/