スタイリストの哲学   〜池田尚輝の場合〜 スタイリストの哲学   〜池田尚輝の場合〜

スタイリストの哲学
〜池田尚輝の場合〜

現役スタイルリストの自分史とそこに宿る哲学を掘り下げる恒例企画。今回は、クリーンなスーツスタイルから、最新モード、はたまたストリートエッセンスが詰まったカジュアルまで、まさにジャンルの壁を超えて多くのメディアで活躍している池田尚輝氏にご登場いただいた。スタイリスト界のオールラウンドプレイヤーは、どのような経緯で生まれたのか? そして彼が今気になっているものとは? 

中2ぐらいでスタイリストという職業を意識し始めました

??そもそも子供の頃からファッションには興味はあったんですか?

「そうですね。姉の影響だと思うんですけど。3人姉がいて6つ上の2番目の姉が、それこそファッションの専門学校に行ったんですよ。そういう身近な環境もありましたし、子供の頃から洋服とか買い物に行くのが嫌いじゃなかったんです。それで姉からの薦めもあり、ちょっとこだわった服を着ていたら注目されたりもして。なんか印象も変わるし、ファッションとは面白いものだなと思うようになったんです」

??何かスポーツとかはやっていなかったんですか? ファッション以外に興味があったものは?

「水泳とかはやっていましたけど、ファッションほどのめり込むものは他になかったですね。やっぱり一番洋服に夢中になったというか。中2ぐらいでスタイリストという職業を意識し始めたので、小6、中1ぐらいのときはもうすでに自分なりに服装を楽しむようになっていましたね」

??それは早熟ですね。中学1年でファッションにこだわるというと、どういったスタイルだったんですか?

「具体的にどんなスタイルというのを表現するのは難しいんですが、ブランドでいうと、アニエスb.やトランスコンチネンツとかを一番初めは着ましたね。買ってきてもらったりして。ちょうど91?92年ぐらいにそういうブランドが盛り上がっていて、ファッション誌でも特集されたりしていたんですよ。でも、だからといってそういうブランドが常に買えるわけではないので、いろいろと自分なりに試行錯誤はしてましたけど(笑)」

??でも、そんなに早くからファッションを気にしている人は、例えば同じクラスや学校にはいなかったんじゃないですか?

「中学に入って一人いましたけど、そのコはファッション誌をちょっと読んでるぐらいでしたね。確かに、みんなおしゃれなんかはしてなかったです。自分が目立ってたかどうかはわかりませんが(笑)。そのあたりから今度はアメカジが好きになってヴァンズとか履くようになったんですけど、当時はユーイングとかジョーダンとかが流行っていたんで、友達はみんなボリュームのある靴を履いているわけですよ。なので自分は周りから馬鹿にされましたね(笑)」

??その勢いで高校生になってからはどうだったんですか?

「高校時代は、さらにアメカジにハマっていきましたね。古着とかに傾倒するようになっていって。ヴィンテージブームもあったので、レプリカも含めヴィンテージものを買うようになりました。その頃はASAYAN(アサヤン)の読者でしたね。裏原とかにも興味を持つようになって。でも周りでは全然売っていなかったんで、情報収集もそんなにできませんでした」

??その当時は、洋服はどこで買っていたんですか?

「高校の頃は古着屋さんとかが多かったです。あとはセントジェームスとかフィルソンとかを売っているような地元の小さいセレクトショップですね。古着屋さんでバイトもしましたし、そうやって洋服やファッションと接していました」

??先ほど中学2年でスタイリストになりたいと思っていたとおっしゃいましたが、それはずっと変わらなかったんですか? 高校になって他に興味を持つようになったものとかはないんですか?

「そうですね。洋服馬鹿でしたね、ずっと(笑)。途中、BMXやったりとかそういうことはありましたが、ファッションが好きというのは全く変わりませんでした」

??それじゃ、バイトしては洋服を買って、ファッション誌を研究したりとかそういう高校生ですか?

「まさにそうですね。高校ぐらいになると友達も増えてファッションで共有できる仲間ができたんで、一緒にフリマに行ったりフリマをやったりするようになりましたし。友達同士で洋服を売ったり買ったり情報交換もするようになって。すごい詳しい奴とかも出てくるじゃないですか、高校ぐらいになると(笑)。でも自分はこだわっていても(リーバイス)501のXXとかは高くて買えなかったんで、66モデルとかビッグEとかを厳選して買ってましたね」

履歴書の写真はモヒカンでしかもモノクロだったんですよ(笑)

??ファッション好きを貫いていたんですね。それで晴れて高校を卒業して東京に出てくるんですか?

「そうです。メンズファッション専門学校という専門学校に入学しました。当時も文化服装学院とかがやはり人気があったんですが、姉に人数が多いところに行くと飲み込まれるよって言われて(笑)。それならもう少し小さいところがいいかなと思ってそうしたんです。でも結果、テーラリングとかも教えてもらえたんで、当時自分が興味があるものとも遠からずだったんですよ。ただ、卒業するのは結構大変でしたけどね。朝9:30からの授業に1分でも遅れると1日授業を受けさせてもらえないんですよ(笑)」

??なかなか厳しい学校ですね(笑)。でもそこに通いながら、スタイリストのアシスタントも始めたんですか?

「二年生の夏からですね。坂井達志さんに師事しました」

??これは募集か何かを見て?

「いや、特にしてなかったんですけど、自分からアクセスしたんです。履歴書を送ったんですが、実はそこに貼った自分の写真はモヒカンでしかもモノクロだったんですよ(笑)。今思うとかなり恥ずかしいですよね。別にパンクスだったわけではないんですが、それが当時の自分のスタイルで。それで一応履歴書なんでスーツを着て撮影したんですが、どうもそれが師匠のアンテナにひっかかったみたいで(笑)。別に狙ってたわけではないんですが」

??それは運がよかったというか、縁があったというか(笑)。そこからスタイリストの仕事を覚えていったんですね。

「そうです。ASAYANやMRハイファッション、ポパイ、コマーシャルやカタログなどなど、いろいろな現場を経験させていただきました。休みはなかったですね。でも、充実はしていたんですが、最終的に行き詰まって辞めたんですよ。もう無理だと思って(笑)。師匠は結構厳しい人でしたので、いろいろとハードルが設けられていて、それを自分は超えていけるのかちょっと怖くなってしまったんですね。そうなったらうまくいかなくなって」

??それは意外な流れですね。では一回スタイリストの道を諦めたということなんですか?

「そういうわけではなかったんですが、そのときは一度就職してみようと思ったんです。ちょうど募集があったので、一度出版社に入社したんですよ。編集がやりたかったんですが、結局、企画営業みたいなことをやっていました。そうこうしているうちに、師匠から手伝ってくれとちょこちょこと連絡がくるようになったんです。それでまたスタイリスト業を手伝うようになったら、今度は独立してみるかと言っていただけたので独立したんですよ」

??なるほど、そういう流れがあったんですね。それはおいくつぐらいの時ですか?

「2000年ですから23歳になる前ですね。当時はスタイリストも今ほど飽和していなかったので、若手にもしっかり仕事があった時代です。幸運にも自分はその時代に独立できたので、そこからいろいろなお仕事をやらせていただけるようになりました。最初は雑誌の物撮りのページとかを中心に、50軒ぐらいプレスを回ったりする企画も多かったので、いろいろなプレスの方とコネクションもできて、結果よかったですね」

??それは、独立してからの流れとしては恵まれていますね。でもそこから一度海外に移住されるんですよね?

「そうなんです。漠然と一回はどこか海外に住みたいなと思っていたんですね。やっぱりファッションは欧米のものなので、一度は住んで何かを吸収しておこうというのもありましたし。それで4年半フリーでスタイリストをやって、そこからNYに行ったんです。そのとき結婚もしたんですが、奥さんも一緒に2005年に移住しました」

??それは思い切った決断ですね。NYにはどのぐらいの期間住んでいたんですか?

「結局、丸一年なんですよ。でも語学学校に通ったり、いろんなクリエイターに出会ったりできたんで、短い期間ではあったんですが自分的には大きかったですね。行く前は知らない間に自分を勘違いしていたんで(笑)。それに気づくことができたのも大きいですね。独立してから仕事も充実していましたし、日本にいるとスタイリストということでいろいろとチヤホヤされることもありましたから。でも、NYに行って誰も知らないところにいくと、余計な油分が落ちたというか。それがすごいよかったなと思っています」

??自分を客観視できているのはすごいですね。仕事が充実すると、もっとイケイケになる人もいるんじゃないですか(笑)

「いやいや(笑)、NY に突然行けば自分のことを知っている人なんて誰もいないし、何も求められていないじゃないですか。言葉も違うし文化も違うわけですから完全にアウェイですよね。何をするにしてもひよっこ扱いになるわけで。日本である程度スタイリストとして働いてから行ったので、それもよかったなと思いますね。何も社会経験がないまま行くよりは、短い期間でも自分なりに吸収できたというか。自分が何を求めて来ているのかということを明確にできたんで」

??でも、最初から1年と決めていたわけではないですよね。

「そうですね。もちろんNYでスタイリストもやりたいなとも思っていたんですが、結局コミュニケーションが円滑にできないと始まらないですし、そこから人脈とかを広げていくと考えると、この先3年とか5年とかかかったうえに、モノになるかどうかもわからないと。そう思った時に、逆に早めに帰ろうと思ったんですね」

??割り切りは早い方なんですね(笑)

「嫁に諭されたというのもありますが(笑)。でもその分、1年っていう意識で生活していたんで、言葉もものにしなきゃとか、経験としてやっておかなければと思うことを割り切って取り組めましたね。ダラダラせずに済んだというか」

あんまり世の中の流れを真剣に見ないようにはしています

??なるほど。逆に濃い時間が過ごせたんですね。それから日本に帰ってきて、何か変わっていたことはありましたか?

「帰ってきたら、ちょうど日本でもNYファッションがまた盛り上がり出した頃だったんです。NYに行った当時は、ファッションといえば、まだNYにもドレス感を求める人が多かったような気がしますが、自分がいる間にNY自体もトレンドも変わっていったんですね。僕自身もオールドアメリカみたいなものが見たくて行ったので、ヴィンテージとかが好きな人の目線でNYのスタイルを吸収しようとしたんですが、少しづつトム・ブラウンとかRRLとかアメトラとかがメインフォーカスされるようになっていって。そのあたりは偶然にもちょっと先回りできたかなと思いますね」

??そういう意味ではツイてますね(笑)。そのとき例えばロンドンに行ってたら全然違ってましたもんね。

「そうですね。ただなんとなくですが、当時のNYのそういう流れを感じ取っていた部分もあるかもしれないですね。なんとなくフィーリングで。パリやロンドンは見聞きしたりたまに行ったりしたときに、しっくりと理解できたんですけど、当時のNYはちょっとわけがわからなくて、捉えきれない感じがあったんですね。だから逆に見に行こうと思ったんです」

??そのNYのアメトラなどを含めたスタイルは、仕事をするうえで今もご自分の重要なエッセンスになっているんですか? 池田さんはスーツからカジュアルまで、スタイリングの幅が広いイメージがあるのですが、何か自分のルーツになるようなものはあるのでしょうか?

「例えばスーツの着付けをキッチリやる事は、確かに求められれば出来ると思います。でもスーツだけとかカジュアル一辺倒というのは飽きてしまいそうで、常に変化を欲する自分がありますね」

??逆に言えば、かちっとしたスーツスタイルもストリート的なものも、どちらもやっていきたいということなんですかね?

「天邪鬼なんですね、多分(笑)。確かにどっちも求められるスタイリストでありたいと思っていますし、いただいた仕事のお題に対しては、しっかりとこなしながらも、ちょっと意外なところに答えを見出すようにチャレンジしたりもしますし」

??例えば国で言うなら、どこのスタイルが好きとかしっくりくるとかはあるんですか?

「やっぱりアメリカは好きですね。ただどこの国のスタイルが好きでそこに大きな影響を受けてそれを追い求めるとかは、決められないですね(笑)。決めたくもないっていうのもありますし(笑)。NYから日本に帰ってきてもう一回スイッチを入れ直すときに、どういう感じでいこうかな?って思いましたけど、ロックだ、ストリートだ、トラッドだ、ドレスだみたいな、自分で自分のことを設定するのはやめようと思ったんですね。求められたプロジェクトごとに自分がいいと思うようにやれば、それが結局は個性として出るんじゃないかと思うんですね。やっていくなかで、自分の好みは自然とテイストとなって滲み出るんじゃないかと」

??その考え方は、スタイリストをやる上でずっと変わらないですか?

「投げられたテーマで例えばスーツだったらそれをブリティッシュとして解釈できるかもしれないですけど、今だったらもうちょっとフレンチ寄りなスタイル、とか自分がその時いいと思うものを反映させていくのがベターだと思います。だからといって自分をフレンチ的、と定義することもないのですが」

??つねに求められるものを自身で咀嚼して応えていくというのは、プロとしては当たり前なんでしょうが、実際はいろんなバランスを取ってやっていくことは非常に難しくもありますよね。

「そうですね。でも例えば雑誌で言えば、編集者の目線、読者の目線、自分の目線っていうものをバランスを取って考えることはしていますね。読者っていうのは、かつての自分も含めてですがじっくり目を通す立場ですし、編集者っていうのはその企画自体の立案者。その両方が満足できる、喜んでもらえるっていうのは必要ですからね。そこで作る側の意見が食い違う場合は、意見を揉んで進めるっていうスタンスが大切だと思います」

??なるほど、だから仕事がたくさんあるんですね!(笑)。流行や自分のテイストの好き嫌いに関してはどうですか? そのあたりも達観してプロジェクトごとにバランスを取ってスタイリングを決めていく感じなんですか?

「ブランドのピックアップとか組み合わせに関しては、自分がなんとなくいいなと思うものと、今まで見向きもしなかったようなものをとりあえずリースしてみたりとか、買ってみたりもしますね。そうやって、いろいろ模索しながら今の気分を掴むようにはしていますが、あんまり世の中の流れを真剣に見ないようにはしています。自分が例えばなんとなくいいなって思っても、その先に何か言葉があるとそれに引っ張られるじゃないですか。だからあんまりじっくりとは見ないようにしています。例えばそれが好きな雑誌であっても」

??では、自分の今の気分っていうのはどこから拾い上げていくんですか。普段の生活からとか?

「情報に振り回されないようにして、気になったものを純粋な気持ちで取り入れるだけですね。今だったら自分のなかでモダニズムなんですね」

??モダニズムというとちょっと大きいテーマですが、もう少し砕いていうとどんな感じなんでしょうか?

「例えば最近だと写真家のヴィヴィアン・サッセンの写真集を見ていた時期に、別軸でなんとなく家具を調べていたらエットレ・ソットサスという建築家兼デザイナーに行きついたんですね。それはメンフィスとかのポストモダンに繋がるんですが、その御大の作品を見ていたらヴィヴィアン・サッセンがやろうとしている配色と繋がったわけなんです」

??それは興味深いですね。

「ソットサスのポストモダンの家具の配色と同じなんですね。そこからポストモダンの源流であるモダンの方を掘り始めたり、それでモダニズムとはなんぞやとなっていって(笑)。モダニズムの基本に幾何学みたいなものがあるじゃないですか。今季のヴァレンティノとかもそうですよね。それにモダニズムの時代ってフォークアートとかも同時進行的に流行っていたんで、インディアンジュエリーとかエスニック調のものも入ってきて。まさに今のファッションの流れとマッチするわけなんです」

??なるほど。そうやってトレンドを掘り下げるという作業も純粋な気持ちでやっているわけですね。最後にこれからの目標みたいなものをお聞きしたいんですが?例えばファッションの枠を超えた映像作品とか、そういったものには興味はないんですか?

「お店とかやってみたいですね。バイイングって絶対面白いと思うんです。自分で空間を作り、服や雑貨を選ぶっていうことを、いずれ手掛けたいですね。」

「モダニズムを感じる陶器や食器はちょこちょこ買っています。イアン・マクドナルドのオブジェ(左)はサンフランシスコで買いました。ハンス・コパーが好きだと公言している作家で、上下別々のパーツを使う所なんかに、その特徴が見られます。右のアルマ・アレンはカリフォルニアのジョシュアツリー在住の作家で、手触りが気持ち良いウッドボウルです。欲しかった物を偶然大阪で見つけて手に入れました。」

「左の『STUDIO POTTERY』は、日本でも人気のルーシー・リーも含めたイギリスの作品と作家について知りたくて購入しました。1930年代以降の作品を集めたものです。右はナツラー夫妻の展覧会図録で、アダムシルヴァーマンなど現代の作家にも強く影響を与えた人達です。」

「こちらの『crafting modernism』は、ミッドセンチュリーまでのハンドクラフトとモダニズム感が融合した作品集です。色彩や形などから、モダニズムの断片を感じ取って、今は自分自身も見識を深めているところです」

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池田尚輝 Naoki Ikeda

1977年、長野県生まれ。スタイリスト坂井達志氏に師事し、2000年独立。メンズファッション誌を中心に活動後2005年にNYへ移住。丸一年後の2006年に帰国し、日本でのスタイリスト業を再開。現在は、ジャンルやスタイルに捉われないスタンスで、ファンション誌、広告、TV等幅広いフィールドでその手腕を振るっている。隙のないビジネススタイルから、多様な要素をミックスしたカジュアルスタイルまで、守備範囲の広さも持ち味。

現在アシスタント募集中。問い合わせは池田氏HPのINFOへ
http://www.naokiikeda.com/