第一線で活躍する現役スタイリストの内面に迫る恒例企画。今回は、かつて多くのスナップ誌の表紙を飾り、俳優としてもスクリーンデビューを果たしたという異例の経歴を持つTEPPEI氏を迎えた。現在では著名ミュージシャンのスタイリングや多くのファッションビジュアルを手掛け多忙を極める彼は、いわゆる一般的なルートを通らずにスタイリスト職に就いたまさに“異端児”。今まであまり語られることのなかったそのユニークなキャリアと、そこに隠された多くのエピソード、そして彼ならではの美学とは?
??そもそも洋服に興味を持ち始めたのはいつぐらいからなんですか?
「中学入ってすぐぐらいですかね。その前は僕はサッカーをずっとしていたんですよ。でも、当時のスポ少やってる男の子って、サッカーをやってないときもずっとゲームシャツを着ていたり、どこのチームのデザインがいい、大きめがいい、小さめがいい、スパイクならどこが格好良いというふうに、こだわりがすごくあったんですね。今思えばですけど、自分もそういうふうに身に着けるものにはこだわりを持っていましたね」
??その興味が、いわゆるファッション的な洋服に変わっていったのは、何かきっかけがあったんですか?
「中学1年の冬ぐらいからですかね。友人が着ていたニットが気になったという些細なきっかけもあるんですが、それがどうこうではなく、ただただ洋服が好きになってのめり込んでいったという感じなんです。でも、その時点ではスタイリストになるとか、洋服に関わる仕事に就きたいなどとは全く思ってはいませんでした。ただ、単純に洋服が好きだったんです」
??じゃあ、中学の終わりぐらいには相当な洋服好きになっていたんですか?
「そうですね。受験勉強しているときの楽しみはもうそれしかなかったですね。塾に何を着ていくか?みたいな。それが90年代の半ばから後期にさしかかる頃だと思うんですけど、原宿ではホコ天が流行っていて、FRUITSという雑誌が出てきた時代ですよね。エンジェラーって呼ばれる人たちや、ヴィヴィアン・ウェストウッド、ビューティービースト、20471120(トゥーオーフォーセブンワンワントゥーオー)などなど、そういうものが東京を中心に地方まできていて、自分の地元、滋賀県大津の小さい街のパルコのフリーマーケットでもそういうものを売ってる人がいたんです。今思うと、当時はファッションというものが地方にも根付いていたんですね。今はファストファッションなどが盛り上がっていますが、デザイナーズの洋服が地方のフリーマーケットに出ていることはあんまりないと思いますし」
??なるほど、当時とは時代が変わったということですね。
「そうです。そういう時代の恩恵も受けて、東京への憧れを抱きつつ、ファッションだけではなく勉学も並行してやっていたんです。小学校から塾に通ってましたし、入った高校も進学校で。そこで急にファッションが好きだから(勉強を)やめるっていう思考回路には至らず、職業はどうするのかっていうのも全然考えてなかったですね」
??真面目に勉強をしていたんですね。それは今のスタイルからはあまり結びつかないかもしれませんね。
「進学校は模擬試験などが数多くあるのでかなりの時間を勉強に割いていましたし、部活でサッカーもまだ続けていました。でも、進路相談を重ねるにつれて徐々になぜ大学に行くのか?という疑問を感じ始めて。両親は国公立大に進学して欲しいって望んでいたはずですけど。今まで頑張ってきたんだからもったいないっていうのもあったと思いますし。でも僕は専門学校に行きたいって言い出したんです」
??16?17歳っていうと世の中に対しての反発とか、そういうものがあって音楽やファッションに走る人も多いと思うんですが、TEPPEI さんはどうだったんですか?
「僕はコンプレックスからでしたね。何かで人に勝てた気がしてなかったから。なんていうんですかね、そのときは服にすがるような形で。楽しみを何かに感じることもなかったですし、勉強してもフィットしてなかったし。服と自分が関わることで、凄くこう、これでモテるんじゃないか、胸張って街を歩けるんじゃないか、という思いがあって、それを無意識にやっていたのかもしれないですね。モテるっていうのは完全に無意識ではないですが(笑)。でも結果、服にハマればハマるほどモテなくなっていくんですよね。ただ、服との時間を割くことはすごく楽しかったです」
??当時の情報は、やはり雑誌から得ていたんですか?
「そうですね。スマートとかミスターハイファッション、そういうものをよく読んでました。ちょうど時代背景としては、デザイナーズ一辺倒のところから変化して、いろいろなカルチャーが存在していた時代です。90年代中期から後期にかけては、まさにそういう感じなんですけど。それぞれのカルチャーが点在していてすごくパワーを持っていた時代から、2000年代になってミックスの時代に変わるんですよ。自分のルーツはそれぞれが変移していく時代にあって」
??なるほど、その一連の流れのなかで東京に出てきたということなんですか?
「自分が上京したのは2002年ですね。まだ裏原というムーブメントは確実にありましたし、デザイナーズのパワーもまた違うところで存在していました。厳密に言うと、それらが落ち着き始めるタイミングで上京してきたのだと思います。そして、ストリートスナップのブームがちょうど起こり始めた時代でもあると思います。ストリートスナップを専門にした雑誌はおそらくFRUITSやTUNEしかありませんでしたが、数多くの雑誌企画でストリートスナップというものが重宝され始めた頃ですかね」
??そういう雑誌に撮られたいという願望はあったんですか?
「雑誌に載りたいとかは当時全然思ってなかったですね。僕がスナップ雑誌に載るようになったのは専門学生のときではなくて、学校を卒業してドッグという古着屋に入ってからなんです。そこでプレス職に就くんですけど、たまたま休憩時間に通りを歩いている時にスナップされるようになったんです」
??それじゃあ、それはプレス活動の一貫でもあったんですか?
「そういうとちょっと違和感はあるんですが(笑)。ドッグに入社して二回目の昼休憩ぐらいで(ラフォーレの交差点の)ロッテリアにランチを買いに行ったんです。それで信号待ちのときに雑誌のFRUITSに声をかけられたのが最初ですね。それで次の日に行ったら同じ雑誌の違う人にまた声をかけられまして、そういう感じで雑誌に載るようになっていったんです。雑誌の人たちとも仲良くなっていって」
??そうやって有名になっていったんですね。顔と名前も世の中に割れて。
「そうですね、顔が割れたどころか、TUNEという媒体の中では読者に一番知ってもらえるようになっていて、カルト的に注目されるようになったんです。お店には都内の方に限らず、地方の方や海外からのお客様もよくいらっしゃっていたので、サインや握手も求められたりして。でも当時自分はすごい卑屈だったんで、怖くなってしまった部分もあるんですね。人に見られることが怖くなって。なので自分を守るように服を着ていました。歩いてたらいい意味でも悪い意味でも後ろ指を指されているような気がして」
??有名になって逆にストレスができてしまったんですね。
「でも、嬉しいのはそれによって仲間もできましたし、お店に海外のデザイナーが会いに来てくれたりもして。ジェレミー・スコットとかベルンハルト・ウィルヘルムとか、彼らは僕に会いにきたよって言ってくれて。しかもベルンハルトは、来シーズンのパリコレでドッグをテーマにしたコレクションをやるからって教えてくれたんです。しかも裏テーマをTEPPEIにするからって。きみのスタイルを抽出してコレクションをやるから見といてねって」
??それはすごいですね。自分の存在が有名デザイナーのインスピレーションになったということですね。
「当時はそんな大事だとは思っていなかったんですけど。そんなことは今後ないなとは思います。そういうことがドッグに入ってから2年以内に起こってるんですね」
??ドッグ自体は結局何年在籍していたんですか?
「2年ですね。そもそも自分がドッグに入ったのは、当時お客さんの立場としてよくお店に行っていたので、社長さんが覚えてくれていたんですね。それで知り合い伝いに手伝ってくれないかという話がきて。自分はその頃はバンタンのスタイリスト科っていうところに通ってましたから、スタイリストになりたいというのは社長に伝えていたんですけど、じゃあうちの服を使って作品撮りをしてブックを貯めていきながらで良いから働いてくれないか?と提案して下さって。その厚意に甘えさせて頂いたという感じです」
??スタイリストになるなら誰かのアシスタントになるということは考えなかったんですか?
「専門学校を卒業したら、勝手にスタイリストをしようと思ってたんですよ。
そもそも専門学校のスタイリスト科に行くっていうことは地元の仲の良いお店の方に、洋服が好きならスタイリストになったらいいんじゃないと言われて、いろいろ調べて決めたんですね。でも、いざ専門学校に行ってみて、みんなが卒業してアシスタントになると言ってることが、右へ習えみたいな感じがしてイヤだったんです。とは言いつつも、僕はすごく逃げたかったんだと思うんですね、今思うと。誰かの下で仕事をするということから」
??なるほど。そうやって紆余曲折あってお世話になったドッグから独立するのは何か経緯があったんですか?
「実は、ドッグに入って2年ぐらいしてから、映画に出ることになったんです。ストリートスナップがきっかけになってるんですけど、『間宮兄弟』という映画で。当時、登場人物の玉木という役がプロのオーディンションを何回しても決まらないという状況で。森田芳光監督が、その玉木の衣装のイメージだけは頭にあったそうなんですが、たまたまTUNEで僕が当時やっていたスタイルを見て、こういう格好のコがいいって思ってくださって。それで電話がかかってきて、突然出ることになったんです。それがドッグを辞めようかなぁって思っていたタイミングで。映画を撮ったのは2004年ぐらいだと思います。主要キャストで舞台挨拶もやらせていただきました」
??それまで演技の経験もなにもないわけですよね? それもまたすごいことですね。
「演技できないんでと言って一回断ったんですけど、それは知ってるって言われて。そのままでスクリーンに出てくれたらいいよって。でも自分はスタイリストをやりたいって言ってたので、洋服もいろいろ組んじゃっていいからって言われて。結局5ルックぐらい組みましたよ、映画のなかのコーディネイトを」
??じゃあその映画でスタイリスト的な仕事もやりつつ、初めて俳優もやったということなんですね。
「そうですね。結果、俳優として出たことしかフィーチャーされないんですけど、実はスタイリングもやっているんです」
??それがスタイリストとしての最初の仕事ということなんですか?
「そうです。それが映画で、雑誌ではゲットオンの別冊だったと思います。当時は古着ブームでいろいろとムックがあったんで。でも古着本なのに僕はデザイナーズをいっぱい借りてきて、ゴルチエとアンヴァレリーアッシュ、ジェレミースコットとか。そのラインナップにアンリアレイジなどのドメスティックブランドやヴィンテージの古着などをミックスして、ただ裁ち落としのファッションストーリーを勝手にやるっていう(笑)」
??それはずいぶん勝手な企画ですね(笑)
「でも格好良いから表紙の候補にしてください!みたいなことまで言って(笑)。今思えば、TEPPEIという名前があったからやらせていただいたんだと思います。他のページでも僕がスナップで出させてもらったりもして」
??それから雑誌を結構やるようになったんですか?
「そうですね、でもすぐに仕事はこなくなりましたよ(笑)。まさにジェットコースターみたいな人生です」
??仕事が来なくなって、その後はどうされたんですか?
「確かに雑誌の仕事は来なくなったんですが、その代わり重要な人との繋がりがいくつか生まれました。実は映画『間宮兄弟』の主題歌はリップスライムなんですけど、映画をやった頃から彼らにはよくご飯に連れて行ってもらったり、ホームパーティに呼んでもらったりしていたんです。でも一緒に仕事はしてなくて。それがあるとき突然、PESさんからメールがきて“近々仕事のお願いをするかも?”っていう内容で。実はある音楽誌で自分がやったスタイリングを見てくれたらしくて、それが気に入って連絡をくれたそうなんです。それを皮切りにグループ全員分の仕事というよりは、各ソロとか規模的に小さいものから徐々にスタイリングをやらせていただくようになったんです。それは大きな出来事ですね」
??純粋に自分のスタイリングを見て気に入ってくれたというのは嬉しいですね。
「そうなんです。あと、これも重要な話なんですが、まだそんなに仕事がない当時、好きなブランドのアンリアレイジの服を着て原宿を歩いてたんですね。
そしたら声をかけてくれた人がいたんですけど、その方は自分が通っていたコム デ ギャルソンの元スタッフで、その当時は、出版社の編集をやられている知り合いだったんです。そしたらその方が、今度仕事しようよってその場で言ってくれて。10代の頃から知ってるからブックも必要ないし、TEPPEIなら仕事したいから一緒にやろうよって。その言葉はその当時の僕にとったら本当にたまらなくて、表参道の片隅で涙を流したのが忘れられません」
??それはいい話ですね。
「自分がただ服が好きで生きていたことを見てくれている人もいるんだなと、その時感じたんです。そういうのが少しづつ繋がっていって、徐々に安定した仕事をもらえるようになっていき、それでご飯が食べられるようになったんです。そうやって要所要所でいろんな人が繋げてくれたというか。やっぱりリップスライムをやらせていただくようになってから急激に忙しくなっていきましたね。雑誌の仕事でも、いきなりWARPやSAMURAI、Ollieといったところの表紙を手掛けさせて頂きましたし、大きなライヴの衣裳も任せてもらえるようになりましたから」
??ある意味、不毛の時代があってよかったのかもしれないですね。
「普通はアシスタント時代にいろいろ学んで精神的にたくましくなっていくんでしょうけど、僕はそういうことがなかった分、それなりの試練があったのかなって思っています」
??では、そんな普通のスタイリストとは成り立ちが違うTEPPEIさんだからこそのこだわりみたいなものって、端的に言えば何になるんでしょうか?
「もちろん服が好きっていうのは大前提ですけど。自分は極端に雑食的であり続けようと意識しています。あるカルチャーやその存在の意味とか、そういうものは全部自分なりに消化しているとは思いますが、そのどこかに自分が属することに意味を感じないです。各カルチャーをリアルに体感していた方々には勝てないですし、そもそも直接的な衝動がない僕にとって、どこかに属すこと自体が嘘になる。ただ、その属さない=属せないという感覚自体がまさに僕のルーツで、カルチャーの点在からミックスの時代になる変遷を体感してきた僕の強みだと思っています。今の東京って、“東京ってなんなの?”みたいな状況がずっと続いていると感じています。わかりきった右へ習えの流れの中で、もし自分が真逆の提案をしても、それもありですよねって受け取ってもらえるような、そんな説得力のあるスタイリストであり続けることができたら面白いんじゃないかと思います」
??どこの国の何々とか、何年代の何とか、ファッションに関してそういう極端に影響を受けたものは、ないんでしょうか?
「もちろん何かしら抽出している箇所はありますけど、自分はそういった何かにルールを感じて突き詰めるタイプではないですね。僕の初期衝動は、思春期に受けた90年代、特に中期のデザイナーズムーブメント、それとさっきお話したような00年代の東京ミックスの時代。お話が重複しますが、これらを強さにしないと何の説得力もないですからね」
??なるほど。では、これから何か挑戦したいことはありますか?
「その一つがブランドのコレクションでランウェイを担当することだったんですけど、僕が数シーズンずっとルックをやらせていただいているPLASTICTOKYOというブランドのショーを次の東京コレクションで手掛けることになりました。同年代のデザイナーがやっているんですけど、楽しみですね。でもそういうやってみたいうんぬんに限らず、そもそも仕事を選ぶのはクライアントさんですから。どんな仕事でも、こういうものを頼みたいと思われたこと自体が、自分の存在価値なのかなと常に思いながら仕事をしています」
TEPPEI
1983年生まれ。滋賀県大津市出身。中学時代からファッションに目覚め、高校卒業後はバンタンデザイン研究所スタイリスト専攻に入学。卒業と同時に原宿のヴィンテージショップ「ドッグ」のプレスに就任するとともに、『FRUITS』、 『TUNE』といったスナップ誌の常連として掲載され、国内外でカルト的な存在として注目を集める。2006年公開の映画『間宮兄弟』では、玉木役に抜擢され演技未経験にも関わらず俳優デビューを飾る。その後スタイリストとして本格的な活動を開始し、多くのミュージシャン、ファッションビジュアル、ショーのディレクション等に携わっている。