一期一会 選・桑原茂一
1970年代後半から、ソロシンガーとして、またバンドのヴォーカリストとして活躍。その後、フォトグラファーに転身し、結婚してパリでの生活も経験。近年は、再び音楽活動をスタートさせ、世界的な評価を受けているnanaco(佐藤奈々子)さん。そんな彼女の人生は、とにかくすべてがミラクルだらけ。桑原茂一さんも舌を巻いた、妖精のような歩みをご覧あれ。
桑原 僕が知っているnanacoさんは、SPYというバンドで音楽をやっていたイメージと、写真を撮っているイメージとが、どこかぼんやりとしているんですけど。そもそも音楽はどのようにスタートしたのですか?
nanaco 大学生のときに、芸能音楽研究会という音楽サークルに入っていて。その頃、ちょうどシンガーソングライターのブーム。それで大学3年生のときかな。関東の大学生を集めた、女の子のシンガーソングライターコンテストが開かれることになって。そこに各サークルの女の子が出ることになっていたんですけど、うちのクラブは女子が私しかいなかったんです。その大会は、最初にカセット審査があって、そこから一次予選、二次予選、準決勝、決勝があるような大きなコンテストで、私は何故か決勝まで残ったんです。
桑原 それはすごいね。そのときは何を歌ったの?
nanaco 最初のほうはカバー曲でも良かったから、浅川マキさんの「跳べないカラス」。でも、その先はオリジナルじゃないといけなくて、すでに仲が良かった佐野元春くんと一緒に急いで曲を作って。
桑原 えぇっ、佐野元春さんとはどうして仲が良かったの?
nanaco 私のいた慶應の音楽サークルが、青山学院の音楽サークルと姉妹サークルだったんですね。だからうちの文化祭に、佐野くんが来て歌うことも多くて。私はお茶を出す係だったから、そのときに「おうちはどこ? じゃあ一緒に帰ろう」みたいな感じで。当時の佐野くんは完全にボブ・ディランで。オリジナル曲を作っては、いろんなコンテストに出ていましたね。
桑原 へぇ?、その曲の歌詞はnanacoさんが書いたの?
nanaco そう。そうしたら作詞賞を貰ったの。
桑原 すごい。
nanaco それで、日本青年館が決勝だったんですけど。私、人前で歌うなんて初めてだったから恥ずかしくて。でも、後半のトップバッターだったから、私の出番に幕が開くんですよ。ステージには佐野くんと、サークルの先輩のウッドベースの方と3人。私は恥ずかしくて前を向けないから、最初のワンコーラスは後ろを見ながら歌ってたの。気分がちょっと落ち着いて、途中で前を向いて歌いだしたら、観客には美空ひばりかのように見えたみたいで(笑)。
桑原 それは面白いね。演出だと思われたんだ。
nanaco そう。しかもその会場にはいっぱいスカウトの方が来ていたから。いろんな人から歌手になりませんかと誘われたんです。そんな気はまったくなかったから断り続けていたんですけど、一番粘ったのがコロンビアの人。大学のすごく上の先輩だったんです。その方のお友だちが、小坂忠さんの奥さまで。
桑原 へぇ?。
nanaco だから、「nanacoを頼むよ」って感じで小坂忠さんの事務所に入ったの。
桑原 そのあたりから、自分らしくやろうと決心がついたんですか?
nanaco 在学中にレコードを一枚作って。自分らしくやろうというより、その頃は赤ちゃんみたいに右も左もわからなかったから。うわ?っ楽しい、うわ?っ楽しいばっかり。そのときに佐野くんが詞を書く楽しさを教えてくれて。
桑原 佐野さんはもうデビューしてたの?
nanaco 私のほうが先にデビューしちゃって。でも、彼と遊ぶときはいつも一緒に詞を書いてましたね。詞を書くだけじゃなくて、ボブ・ディランの「3人の天使」ってお題を作って天使の絵を描いたり。その絵についてこういう感じなんだよ、とか説明したりしながら。
桑原 うわぁ、映画になりそうだね。
nanaco もうひとつ佐野くんの話で面白いのは、とにかくその頃の彼はボブ・ディランだったから。私と出会ったときも嘘をついていたの。それは、ボブ・ディランがガールフレンドについた嘘とまったく同じだったらしくて、「僕は孤児で、継母にいじめられて日本中を歌って旅しているんだ」っていう。当時はすごくピュアだったから私は本当に信じちゃって、「なんて可哀想な人なんだろう。じゃあ、もしもつき合って欲しいなんて言われたら、私はこの人と一緒に旅に行くんだぁ?」なんて空想しちゃったり。
桑原 アハハハ、最高だね。
nanaco それを信じていたのに、お家に行ったら素敵なお母さんがいて。あれ? なんで? お母さんがいないって言ってたのにって。
桑原 芸能活動をしつつ学校を卒業して、それからは音楽だけで生きていく生活が始まるわけですよね。それはどのくらいの期間やられたんですか。
nanaco 当時は、ソロアルバムを一年に2枚出すのが一般的で。売れても売れなくてもレコードを次々に作っていた時代だから。その合間にライブもちょこっとやって。でも、いわゆる給料といえるようなお金はもらっていなくて、お小遣いみたいなものでした。
桑原 そうなんだ、卒業後も自宅にいて生活的な心配もなかったんですね。
nanaco うん。その心配がなかったから、楽しく音楽をやっていました。
桑原 夢のような生活だ。でも、徐々に現実が見えてきて、この先どうしようかと考えますよね。
nanaco それがね、私は本当にそういうことを思わないタイプで。好きなことを一所懸命やっていて、そこで生まれた出会いと共に生きてきちゃったの。歌手として爆発的なヒットはなかったけれど、ムーンライダーズのメンバーとか新しい仲間との出会いがあって。そうすると「その喋り方おもしろいね」って、ナレーションの仕事をたくさんやるようになったり。その頃に事務所を離れて、自分で音楽活動を始めるようになったんです。
桑原 でも、芸能界では事務所を辞めるのは一大決心だったりするんじゃないですか。
nanaco いや、何も揉め事なく自然な感じで。ちょうど、コロンビアとの契約が切れたときだったから。その頃、ムーンライダーズに影響されて彼らと音楽を作ったり、私が詞を書いたりしていて。そうしたら自分でバンドをやりたくなってSPYを始めたの。最後のソロアルバムで、曲を書いてくれた加藤さんに話したら、バンドのプロデュースをしてくれることになって。
桑原 自分の作りたい音楽のイメージは、デビューした頃からあったんですか?
nanaco ほとんどお任せでした。でも、自分で詞を書くから、世界観は言葉として表現していて。音に関しては、自分を主張できる言語があるわけじゃないから、みんなの作業を見ながら委ねてたました。
桑原 では、私はこういう音楽をやりたい! って思い始めたのはいつ?
nanaco それは一回音楽をやめてから。SPYのときまではバンドがやりたくて、でもアルバム一枚で終わっちゃいました。当時は、「ビョ?キ(病気)」とか「暗い」みたいなのが流行っていて。やってはみたけれど、どうにも似合わないし。バンドが終わる頃かな、カメラマンの友だちが「カメラは押せば写る」って言う言葉に触発されて。「えっ、押せば写るなら私にもできるんじゃないのかな?」って写真を始めたら、楽しくて楽しくて。
桑原 カメラマンに教わりながら始めたの?
nanaco これまで私のアルバムジャケットを撮って頂いていた、横木安良夫さん。その方に現像とかもいろいろと教わりました。
桑原 そうなんだ。そこから写真を続けて行くことになるのは、何かきっかけがあるんですか?
nanaco 「写真は押せば写る」と聞いた直後に、お母さんが亡くなって。昔、母が雑誌の『ビックリハウス』に、動物好きな人として紹介されたことがあったんです。そのとき撮って頂いた、犬を抱っこした素敵な写真を遺影にして。それを見ると、母はいつもニコニコしていて、写真っていいなと思ったことも大きな理由ですね。
桑原 写真が仕事につながったのは、どんなキッカケだったんですか?
nanaco その当時、バブルの始まりだったから。「歌手のnanacoちゃんが写真を撮り始めたんだって」「へぇ?、どんなのだろう。見てみよう」みたいな感じで、最初はレコードジャケットを頼まれて。それから撮影をいろいろと頼まれるようになったんですけど。当時、私は多重露光の幻想的な写真をよく撮っていて。それを見た、日産の海外向けカレンダーをやっているアートディレクターさんが気に入ってくれて、お仕事を頂いたんです。カレンダーは世界的なコンテストがあって、それまでずっとポルシェが獲っていたらしいんですけど、そのカレンダーで日産が初めて金賞を頂いて。
桑原 すご?い。
nanaco その仕事の成り立ちもすごくて。私みたいな新米カメラマンに、アートディレクターの方が「これで好きなところへ行って、好きなメンバーでとにかく12枚撮ってきて」って。決まっていたのは、女性とクルマのパーツを多重露光で撮影するということだけ。それで現金400万円を渡されて。そのアートディレクターも日産の人も誰も付いてこないの。だから、仲のいいヘアメイクの人と一緒に出かけて。
桑原 まだ夢の中ですね。
nanaco そう、誰にも信じてもらえないような話でしょ。「お金が足りなくなったら電話しろ、すぐに送るから」みたいな。そこでパリに行って、エージェントで当時のスーパーモデルみたいな人を自分でブッキングして。ホテルもリッツとかに泊まっちゃって。最後はついにお金が無くなって、2つ星のホテルで我慢したり。おもしろいでしょ?
桑原 おもしろすぎですよ! その後、住むことになるわけですけど、パリはお好きだったんですか?
nanaco 振り返ると、自分が生まれる前に縁があったところを、ずっと辿っている気がしますね。パリもすごく縁があったところだから、必然的に住むことになったと思うし。仕事だからとかいろいろあっても、全部引き寄せられたんだと思う。自分の考えより、もっと大きなチカラが働いていた気がする。
桑原 プライベートな話になってしまいますけど、結婚されたのがフランスの方だったんですか?
nanaco オランダ人ですね。でも、出会ったのは日本。これもまたおもしろい出会いで。佐野元春くんが、『THIS』って雑誌を出すことになって。その1号目で好きなものを撮って欲しいと頼まれたので、「男と女の世界」を撮影しようと考えたの。女の子は以前撮影したモデルがすぐに思い浮かんで。でも、男のモデルをどうしようかと考えていたとき、ラウンジリザードのライブへ行ったら、私の後ろにすごくハンサムな人がいたの。その日はそのまま過ぎたんだけど、後日モデル事務所からコンポジット(モデルの資料)が送られて来たら、そこに彼がいたわけ。すぐにこの人がいいって決めて、それが出会い。しかも同時期にオランダ政府観光局の仕事で、オランダの風景を撮ることになっていたから。一緒に行きましょうっていう話に。
桑原 すごすぎる。。。さっきからすべてがミラクルだよね。
nanaco 自分でも確かにミラクルだなと思う。
桑原 う?ん。でも、夢のような時間からお子さんが生まれて。子どもを育てるとなると鏡を見ているようなもので、否応無しに自分と向き合わなくてはいけない状況になりますよね。
nanaco 夢のような生活をパリでしていたんですけど、子どもが生まれると仰るとおりに現実的なことがたくさん出てきて。アーティスト同士はぶつかることも多いし、子育ての考え方が違ったり。特に、彼のお母さんはウーマンリブの会長だったりしたから。そういう部分もあってギクシャクして、彼と一緒に日本に帰ってきて、しばらくしてから離婚したんです。
桑原 でも、離婚に関しても、自分に正直に判断してきたわけですよね。
nanaco トラブルの最中は相手のことをイヤだって思うんだけど、それって本当はイヤな自分と向き合っているんですよね。あと、離婚は大変なことなんだけど、彼がすごかったのはそこから絶対に逃げなかった。きっちり役目を果たした上で、離婚してからも子どもにはずっと手紙を送ってきてくれて。いまではポストカードで部屋が埋まるくらい。それは頑張って書いているわけではなくて、送りたいというシンプルな気持ちなんです。今ではとても尊敬していますよ。離婚したことで結婚とは何なのかがわかったし、素晴らしい離婚だったと思うんです。
桑原 素晴らしい離婚っていう言葉は、これまでに仲間の周りでも聞いたことがないですよ。この話もミラクルですね。
nanaco いまは本当にありがたかったと思います。
桑原 人間って年齢を重ねるほど、どう生きてきのたかが身体から滲み出てきてしまうと思うんです。どんなに美しい洋服を着ても、それは隠し通せない。nanacoさんのお話を聞いて、本当にそうなんだなと確信しました。人は生き方でしか美しくなれない。人が醸し出すオーラと、その人の生きてきた道は同じなんだなと改めて思いましたね。今日はありがとうございました。
「Permanents presents A ZIG/ZAG SHOW」
Permanents(田中和将&高野勲 from GRAPEVINE)が、東京と京都でライブイベントを開催。東京公演では、nanaco+長田進がゲスト出演する。
2014年7月6日(日)
場所:WWW
出演:Permanents(田中和将&高野勲 from GRAPEVINE)/ nanaco+長田進
チケットは5月24日より一般発売がスタート。
これに先駆けてGRAPEVINEのファンクラブおよびオフィシャルサイトでは先行予約が行われる。
nanaco(佐藤奈々子)写真家・歌手
1977年、佐野元春氏との共作アルバム『ファニーウォーキン』でデビューし、計4枚のソロアルバムをリリース。1980年、バンドSPYを結成し、加藤和彦プロデュースによるアルバム『SPY』を発売。その後、カメラマンとなり、広告、雑誌、などで活躍。1987年より5年間パリに在住。1993年、帰国後15年ぶりに音楽活動を再開し、アルバム『 Fear and loving』を発売。1996年 には、アルバム『 LOVE IS A DRUG 』がイギリス、アメリカ、日本でリリースされ、タイトル曲のシングルが日本人アーティストではじめて、NMEのシングル・オブ・ウィークに選ばれるなど世界的な話題に。現在も、Coccoや細野晴臣といったミュージシャンのCDジャケットなど、カメラマンとしても活躍中。旭化成ヘーベルハウスの「はーぃ」の声など、CMナレーションにも多数出演している。。