一期一会 選・桑原茂一
今号のゲストは、パリを拠点にフリーランスとしてファッションコンサルティングやコーディネーター、キャスティングとして活躍している大塚博美さん。アンダーカバーのパリコレをサポートしていることでも知られています。ちなみに、スタイリスト馬場圭介さんの奥さまでもあります。そんな大塚さんのお話は驚きもいっぱい。桑原茂一さんも舌を巻く、巡り合わせに恵まれた人生をお聞きしました。
ーーこの連載では、自由にのびのびと生きている女性をお迎えして、その人たちの生き様や考え方をお聞きしているんです。自分の好きなことで活躍している人って、普通の生活をしている人からすると特別な人だと思いがちで。でも、「あなたにもできるんだよ」っていう勇気を与えてあげたいというか。そう思う一方で、僕の周りにいる女性は、みんな気ままに楽しく生きているなっていう感じもして。
大塚 そうかもしれないですね。旅行に行くのも女性ばかりですしね。あと、女性のほうが考えるより先に行動しちゃう人が多いかもしれない。
ーーそうなんですよ。ということで、まずは最初にパリを意識したというか、イメージするようになったきっかけを教えてください。
大塚 ゴダールとかゲンズブールとか、音楽や映画のフランスに好きなものが多くて。そこから感じられるライフスタイルというかムードみたいなものが好きだったんです。いま思えば、若いときのほうが知的というか、おませだったんです。
ーー熊本出身なんですよね?
大塚 生まれは東京で、熊本は浪人して大学に入った19歳からです。
ーー熊本時代、そういう文化を味わう場所はどこだったんですか?
大塚 熊本で一番大きなレコード屋さんに謎のコーナーがあって。そこにある音楽はすべて好きみたいな。ジャケットもかっこいいし、理屈なくパリ感に浸れたんですよね。音楽だとMIKADOとかも好きでした。
桑原 MIKADOかぁ、ピテカンの頃だ。
大塚 その頃、熊本でフレンチ少女でした(笑)。ブリジット・フォンテーヌとか、そういうのに憧れて。
桑原 それでフランス語を学ぼうと思ったの?
大塚 思わなかったですね。その頃はクラブ(ディスコ)活動が忙しくて。熊本にもピテカンでかかっていたような曲が流れるハコが一軒あったんですよ。
桑原 熊本はファッションとクラブカルチャーが昔から強いんだよね。
大塚 そうなんですよね。
桑原 それからどうしたの?
大塚 熊本で医療関係の大学を卒業して、臨床検査技師として福岡で2年くらい働きました。それから熊本に戻るんです。
桑原 へぇ?。
大塚 福岡時代は、結核療養所で朝から白衣着て顕微鏡を覗いていました(笑)。
桑原 でも、クラブ活動は継続していたの?
大塚 継続していましたね。親の勧めで医療関係に進んだんですけど、最初から違うなとは思っていたんです。なので、昼は白衣を着て、夜は「カフェ・ド・ヴォーグ」ってお店で古着のドレスを着て働いていました。いまでいう、ガールズバーみたいなところかな。私以外はみんなモデルさんで。クラブにも毎晩行って。
桑原 ルーツを聞くと、いまが見えてくるね。音楽やダンスが好きだったんだ。
大塚 そうですね。馬場(圭介)はツバキハウスに行き過ぎて、大学中退して、熊本に戻って洋服屋で働いていたんですが、私が福岡で働き出した頃にはまだ日本に入っていなかったアニエスb.などのインポートのセレクトショップを熊本の共通の友人がオープンして、そこで働き始めました。そんな関係もあって、馬場に会いに週末は毎週熊本に帰っていたんです。
桑原 へぇ?、ちなみにふたりはどこで出会ったの?
大塚 「スーパースタジオ」っていう、熊本にあった唯一のディスコというかクラブで。熊本時代の友だちは昔から馬場のことを知っていて、初めて会った翌日にお見合いみたいなことをさせられたんです。
桑原 いい話だなぁ?。もともと洋服は好きだったの?
大塚 小さいときから好きでしたね。母親が下北沢で洋裁店していたので。父は月光仮面の大瀬康一さんのマネージャーをしてたんです。
桑原 ほぉ、すごいね。
大塚 父はルノーとか乗っていました。母親はパリコレに憧れていて。パリに行きたいと思っていたときに私を妊娠したらしいんですね。なので、子どものときからパリコレの写真を見て、そこに載ってる洋服を親が作って着せてくれたりしていました。小学校の頃は赤いタイツの上にモヘアのニットを一枚で着て行ったりして、周りのみんなから「スカートを履き忘れてる」ってイジメられて泣いて帰ったこともあります。
桑原 幼少期の感性って死ぬまで絶えないですよね。
大塚 母親がミシンで縫っていて、その横でハギレを使って何か作っていましたからね。小学生時代の夢にも「デザイナーになってパリコレやりたい」って書いていて。結局は好きなものに戻っちゃうんですよね。
桑原 ファッションの業界に入るきっかけはどんなことだったの?
大塚 それもご縁なんですよね。当時は東京でもセレクトショップが出始めの頃で。私が働いた熊本の「アントワープ」ってお店は、ビームスとトゥモローランドとサザビーが混ざったようなセレクトショップだったんです。当時、メンズが馬場で、レディスが私。入ってすぐにバイヤーとして東京に行くことが増えて。東京に行ったらピテカンで遊んでました。そうしたら、今度はオーナーから海外一緒に行きますかって言われてパリコレに行かせてもらったんです。そこでますますフランスが好きになって。でも、すべてはご縁で、自分から行こうと思ったこともないし、三つ子の魂に引っ張られた感じですね。
桑原 そういうこともあるんだね。
大塚 そうして、月に東京半分、熊本半分みたいな生活を続けていたんですけど。お店もすごく大きくなり始めて、そろそろ辞めようかと思うようになっていたんです。そうしたら、クラブ活動でお友達になった方から「お店出したいですか?」って言われて。「ハイ」みたいな(笑)。ちょうど馬場がロンドンに住むことになったので、彼がロンドンから送ってくるものを売るショップにしましょうって話になって。
桑原 トントン拍子だ。凄すぎるね、それ。
大塚 馬場がロンドンのクラブ活動で知り合った人脈で、最新のデザイナーのものが送られてきて。それとヴィンテージを半々くらい置いた4坪程度のお店でした。でも、珍しいものが多かったので、東京からもお客さんが来てくれましたね。
桑原 それが24歳くらい? すでに東京もパリコレも体験して。スタートが早いよね。
大塚 大学は全然違うんですけどね(笑)
桑原 好きなものに吸い寄せられるというか、本能的に行きたい方向にいくんだろうね。スポンサーが「洋服やりたいんじゃない?」って声をかけるってことは、そういうオーラを出していたってことでもあるし。
大塚 熊本では目立ってたかもしれないですね。
桑原 そのお店はもちろん成功するわけだよね?
大塚 成功っていうか、まぁ回っていましたね。そのお店をやっているとき、地元でテレビに出ないかと誘われたんです。
桑原 へぇ?。
大塚 土曜の深夜番組だったんですけど、東京からカルチャー系の面白い人を呼んだトークショーをしていました。あと、ファッションウォッチングしたり、ラブホの落書き帳を見に行ったりとか、企画を自分で考えたりして。
桑原 ウケそうだね。
大塚 視聴率はすごく良かったですね。熊本の目抜き通りとか歩いていると、みんなに声をかけられたり、お酒をおごってもらったり。でも、地元で有名になったことで、このままではいけないんじゃないかという思いが生まれ始めて。自分は生意気なんじゃないか、世界はもっと大きいんじゃないかという気が沸々と起きてきたんです。
桑原 ほぉ?、天狗にならないのがいいね。それで、すべてを捨ててパリに行くんだ。
大塚 ある日、電話がかかってくるんです。
桑原 おぉっと。
大塚 福岡でセレクトショップをやっていた方が、実はパリから直接バイイングしようと考えていて人を探していると。誰か紹介してくれないかって連絡が来たんです。パリに住んでいる友だちに連絡してみたら、来月に日本へ帰るって言われちゃって。それなら自分で行っちゃおうかなと。
桑原 なんでこんなにつながっちゃうんだろうね。
大塚 私でもいいか? って連絡したら「センスはわかっているから」って言ってくれて。月々のお給料を貰ってパリに行けることになったんです。
桑原 なんて夢のような。
大塚 だから偶然しかないんです、何の努力もしていない。
桑原 そういうのセレンディピティっていうんだよね。とはいえ、言葉の問題とかはどうしたの?
大塚 日本で週に1回くらい学校行って。でも、そんなんじゃ覚えられないですよ。それよりも、すぐにお店をたたむ準備を始めて、洋服代とかすべて返したら3万円くらいしか残らなかったことが衝撃で(笑)。そこでお婆ちゃんに会いに行って10万円貰って、母親も4万円くれて、計17万円を持ってパリに行きました。
桑原 そこでまたクラブ活動?
大塚 お金はなかったですけど毎晩でした(笑)。クラブで知り合った人たちと、慣れないフランス語を話して覚えましたね。
桑原 バイイングに関しては困らなかったの?
大塚 こっちがお客さんなので困らなかったですね、身振り手振りで。バイイングに関してはそれから長く続けました。フランスだけでなくイギリスにも行ったり。
桑原 そうこうしているうちに、「パリで困ったことがあれば大塚さんに頼め」みたいな感じになったんですね。これまでまったく挫折がないような感じですけど、めげたりしたことはありましたか?
大塚 ないですね。好きなところに住んで楽しいじゃないですか。
桑原 パリは文化に対してのキャパシティが広いじゃないですか。カルチャーに関しては洋服からどんな風に広がっていきましたか?
大塚 カルチャーに対する貪欲さは、九州にいたときのほうがあったかもしれないですね。日本だと何かの展覧会があれば大々的に宣伝して、丁寧に解説してくれるじゃないですか。でも、フランスはそういうプロモーションはあまりなくて、あと解説もフランス語なので読めなかったり。日本は興味がないものも興味を持たせてくれる仕掛けがすごいですよ。購買欲をそそられるっていうか。
桑原 映画や音楽の変遷はどうだったの?
大塚 逆に聞かなくなっちゃった。行く前はすごく憧れて、フランス映画しか観ない感じになっていたんですけど。フランス映画も観なくなりましたね。でも、行く前に観た『DIVA』って映画が好きだったんですけど、2年後に観たら字幕なしで理解できて感動しました。
桑原 それでいいんだろうなぁ。教養っていうのは、実は生活のなかで浸透していくものなのかもね。
大塚 若いときは理屈を語るのが好きみたいなとこありますよね。それがどんどんと「美味しければいいじゃん!」って思うようになりました。
桑原 パリに来て本当に良かったと思えるような、強く印象に残っていることってありますか?
大塚 ファッションショーでいえば、やっぱりジョニオくんの初パリコレが印象に残っていますね。7月に初めてお会いして、すぐの9月にパリコレをやりたいって話だったので大変でしたけど。でも、作っているものもかっこいいし、すごく素敵な人だなと思いました。ショーが終わった瞬間は嬉しかったですね。
桑原 僕も77?97年くらいまでコムデギャルソンの仕事をお手伝いしていたので、82年からパリコレにも参加していましたけど、最初にパリがいいと思う気持ちがあって、その後は行くたびに良くない部分が見えてきたり。イメージが上がったり下がったりするじゃないですか。そういう体験をいろいろとしてきて、仕事もして、改めて日本人っていうのはどんな人たちだと思いますか?
大塚 う?ん、難しいですね。だんだん歳を取ってくると、やっぱり日本は居心地がいいと思うようになってきましたね。周りの人をリスペクトして暮らしているから。周りを見ながら自分の行動を起こして行く。でも、フランス人にはそういう配慮があまりなくて。そう考えると、ホスピテリティもあるし、すごく優しい人たちだと思いますね。
桑原 日本に住んでいる側からすると、異なる価値観をどう受け入れるかが問題になっていて。多様性がない民族であるなど気になる点があるんです。
大塚 海外に行っても、できる限り日本での生活と同じ状態のまま過ごしたいと考える人が多いかもしれないですね。でも、行ったらドーンと飛び込んでみる。そうすると違うものが見えてくると思うんです。日本人ってすごくキレイ好きだし、うまく段取りをしたがるところがあるので、怖いんだと思うんですよ。異文化が。
桑原 でも、大塚さんがこれほど長くパリに暮らしているのは、そうは言っても居心地がいいってことでしょ。
大塚 そう言われると、そうかもしれないですね。何十年住んでも、フランスでの私は外人なんですよ。外人でいる感覚が好きで、いまや日本に帰ってきても外人なんです。ずるいのかもしれないけど、そこが居心地がいい。
桑原 自分の人生を大切にすると、そのくらいの距離感がいいのかもね。
大塚 わがままなだけかもしれない。
桑原 最近、自分の居場所はここにしかないと思っていて、一歩前に出るとか殻を壊そうとする元気のある若い人が少ないって話をよくするんです。こういう仕事に就きたい! とか、そういう熱気がないよねって。
大塚 熱気はないですね。
桑原 優しい仲間といれるだけで幸せみたいな。でも、そういう若い子にどう言ってあげればいいと思う?
大塚 親がそうやって育てているのかもしれないですね。うちは決して裕福ではなかったですけど、親がいろんなものに憧れていたので。親が「ちゃんと勉強しなさい」っていうのはあまりよくないんじゃないですかね。「遊んできなさい」っていうといい子になるような気がする。私が言っても現実味がないですけど。
桑原 海外に住んでいる人がよく言うのは、日本だと政治の話や社会の話を語らないことがいいみたい雰囲気がある。でも、海外で特に表現の仕事をしている人たちは、政治的な理念や思想に関してはっきり発言しないと認めてくれないといわれますよね。
大塚 それもやっぱり、子どものときからの習慣なんですよね。向こうの家族はごはんを食べながら普通に政治の話をして、親と息子が大げんかをしたりしますし。友だち同士でもお酒を飲みながら政治の話で喧嘩になったり。日本人からすると、そんなに熱くならなくてもいいんじゃない? と思うんですけど、そういう土壌で育っているんでしょうね。だから、言わないのは考えてないんじゃないの? って思われちゃうんですよ。でも、日本は出る杭は打たれるっていうのがあるから、言ったら損をするんじゃないかって考える人が多い。
桑原 フランスは市民革命を起こしている国だからね。
大塚 もともと、ノンっていう国だから。ノンで話がどんどん進んで行くんです。日本はイエスだから、イエスだと話が終わっちゃう。ノンの国だから議論になる。
桑原 日本のイエス文化は、それはそれでいいって感じ?
大塚 まぁ、そうですね。日本でノーということは難しいですよね。
桑原 とはいえ、アフター311以降はだいぶ変わってきましたよね。政治のことや、目の前にある危険なことに関してもバンバン言うようになってきている。
大塚 あと、デモも。そういう場が出きてきているはいいことだと思いますけど、一般的にはまだ難しいと思いますね。
桑原 最後に、今もなおそのパワーをキープしている原動力は何なのかを教えてください。
大塚 撮影にしてもショーにしても、仕事のたびに10日間くらいの家族ができるんです。その家族からパワーを貰っている気がします。だから仕事していないときのほうがおとなしい。仕事終わりの打ち上げで、みんなと美味しいものを食べているときが一番楽しいですし、元気の源になっています。
大塚博美
在仏26年。フリーランスのファッションコンサルティング、コーディネーター、キャスティングとして活動。
パリで行われるファッションショー、展示会、イベント等で日本の才能溢れるクリエーターの海外進出をサポートするパリ母でもある。
また、日本人フォトグラファーはもちろん、海外フォトグラファーとも世界各地の撮影をアレンジしている。