一期一会 選・桑原茂一  ゲスト:塩井るり 一期一会 選・桑原茂一  ゲスト:塩井るり

一期一会 選・桑原茂一
ゲスト:塩井るり

一期一会/選・桑原茂一

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今回の一期一会は、’90年代初期の日本においてディスコをクラブと呼ぶようになったきっかけともいわれる伝説のクラブ「芝浦 ゴールド」や、’90年代後半のカルチャー発信基地でありバンドもDJも楽しめた「恵比寿 みるく」などで、ブッキングやクリエイティブ・ディレクターとして活躍された塩井るりさん。これまで東京のクラブカルチャーを裏方として牽引してきた塩井さんが、今年の夏からサラダの宅配ランチとケータリングのビジネスをスタート。その理由と、好きなことを仕事にして生きる極意とは?



桑原 これまで、東京のクリエーターが求めている場所を常にオーガナイズしてきたじゃない? そこから、いまメディアを「食」に移そうとしている理由というか、心境の変化を教えて貰えますか。

塩井 私のなかではあまり変わっていなくて。今までずっと夜の場所に自分がいて、そこにお客さんや仲間が出たり入ったりしていたわけですけど、それが昼の時間帯に移行した感じですね。理想は24時間営業ですけど、カラダを壊したこともあって、長生きするには昼を中心にしないとと思ったんです。それに、やっぱり私は現場が好きなんですよ。だからプロデューサー的に誰かにお任せすることができなくて。

桑原 それからカラダの調子は変わった?

塩井 東京の朝を起きるのは高校生以来で(笑) 高校卒業してN.Y.に行って、戻ってきてからはゴールドをやっていましたから。だから、街が違って見えるし、新しい発見がありますね。

桑原 出身はどこなの?

塩井 品川区ですね、小学生のときに青葉台(横浜市)に引っ越しました。

桑原 じゃあそこが故郷って感じなのかな。

塩井 子どもの頃はまだ竹林があったりしたんですけど、今はびっちり家が建ってしまっていて。だから、土地に対する愛みたいのはないですね。

桑原 高校卒業後、何故N.Y.に行こうと思ったの?

塩井 とにかく日本を飛び出したくて。小学校から女子校だったので周りは女子ばかりでしたし、みんな短大に行って、ちょっと働いてお嫁さんになるような感じだったんです。私は桑原さんのスネークマンショーを聴いていたタイプだし、そこから脱線したかったんですよね。

桑原 そのなかで、N.Y.を選んだ理由はあるのかな。

塩井 反抗するタイプでもなく、いい子でしたから、親は短大に行くと思っていたんです。そこで、どうやって説得しようかと考えて。私は子どもの頃からバレエやモダンバレエをやっていたんですけど、調べてみると日本の大学に舞踊科ってないんです。そこで、「日本には舞踊科がないので、海外に行きたい」と。

桑原 そのときはどんな将来をイメージしていたの?

塩井 N.Y.に行くことしか考えてなかったですね。でも、初めて海外で生活してわかったことは、生きるために必要なことを何も知らないってことでした。これまで受けてきた教育は何だったのか? という怒りすら覚えましたね。バレエは2年で挫折して、そこからいろんな人と出会って吸収するなかで学んだ気がします。

桑原 バレエ学校を卒業してからバンドを始めたんだよね。結局、何年くらいやったの?

塩井 10年くらいですね。とにかく楽しくて、毎週末どこかのクラブで演奏していました。

桑原 それはすごいね。それで、いい子じゃなくなったのはいつくらいから?(笑)

塩井 N.Y.では、いい子でいても何も得をしないんですよね。静かにしているとタクシーには迂回されるし、黙って待っていれば誰かが何をしてくれることなんてなくて。「いえいえ、どうぞ」なんてやっていると、いつまでもそのまま。だから、初めてタクシーの運転手と喧嘩できたときは嬉しかったですね。

桑原 そのとき何かが大きく変わった瞬間なのかもね。でも、毎週末ステージに立って、衣装も自分で作ってという生活は、楽しいだけで続けられるとは思えないんだけど。

塩井 自己表現ですかね。だから、日本に帰ってくるつもりもなかったんですけど、ゴールドを立ち上げた佐藤さんとお会いして。そこでバブル真っ只中の日本を見て驚いたんですよ。サラリーマンもOLもみんなすごいことになっていて(笑)。びっくりしたと同時におもしろかったので、これなら1年くらい日本にいてもいいかなと思って。そのうちどんどん仕事が楽しくなりましたね。

桑原 新しいことっておもしろいよね。しかも、人がいっぱいいるところは特に。

塩井 佐藤さんのすごいところは、ただN.Y.でライブをやって遊んでいただけの私に「好きにやれ」って言ってくれたところですね。

桑原 でも、そこがいま一番求められている感性だと思うよ。言われたことをやるのではなくて、そこに行って何をすべきか察知して素早くカタチにする人。よく、海外事業部に配属してもその担当者に感性がないから、あれこれ外注しなきゃならないっていう話を聞くんだよね。るりは10年間も毎週ステージに立って、毎回違うお客さんを相手に臨機応変にやってきたことが、いい訓練になったのかもね。

塩井 そうかもしれないですね。

桑原 ゴールドの後は、すぐにみるくを始めたの?

塩井 オレンジというお店を手伝って、その後にみるくを立ち上げました。7年近く毎日現場に出ていたので、ついにカラダを壊しまして。休養を兼ねて、当時結婚していた旦那のオーストラリア・シドニーで3年間生活していました。そこで、食に目覚めたんです。自分の手で何かを作るっていう意味では、バンドとかこれまで好きでやってきたことと同じだったんですよね。

桑原 なるほどね、食も同じだったんだ。それでシドニーから戻ってきてから、ルバロンに行くわけだけど。

塩井 2005年に戻ってきて、本当は朝ごはん屋さんを始めたかったんです。でも、ルバロンからお話しを頂いて、これまで私を支えてくれてきた人たちも「やってよ」って言ってくれたので、夜の場所で皆を迎え入れるのがまだまだ役目かなと。ルバロンは、ゴールド時代に10代、みるく時代に20代だった世代が立派な30代クリエイター達に成長し、彼らが中心となって老若男女が交える会話中心の社交場にしたかったんです。

桑原 るりがいるルバロンはしっくりくるよ。東京のなかで、ひとつの役割りを持っている場所だよね。みんな一緒に歳を取るわけだし、そのときどきで楽しい場所が欲しくなるから。

塩井 毎晩いろんな人が私のところにやってきて、自分の話をたくさんしてくれるんです。その人が夢中になっていることもあれば、恋の話、世間話などなど。私はその内容を批判するでもなく、助長する分けでもなく、「うんうん、そうだったの。よかったね」とか「大変だったね」とか「それいいね!」って聞いている感じで。いま考えると、そういう話を聞くだけで、才能あふれるみんなのエネルギーを吸血鬼のように吸って生きてきたんだなぁ、と思うんです。エネルギーを貰って元気になって、今度はそれを私を媒体として別の人に感染させていく。

桑原 いい話だね。エネルギーは循環しているからね。一方で、女性が女性らしく生きて行くことは難しいこともあると思うけど、そこは何か感じることある?

塩井 あまりバリアを感じたことはないですね。私は一般的に男の人から恐いと思われているから(笑)。でも、それが無意識の対等アピールなのかもしれない。

桑原 何か決断をするときや、新しいことを始めるときに心がけていることは?

塩井 常に自分に問いかけて、人に頼らないってことですかね。同じ環境のなかだけで考えていると壁にぶつかるので、視野をできるだけ広げるようにしています。点のなかでしか見ないと、そのことが不安や不満の理由になってくるから。もっと自分の関わりや、役割りが見えてくると、同じことも違って見えるようになると思うんです。

桑原 うんうん。いまゲストハウスを経営しているバックパッカーの若い子たちがいるんだけど、彼らは世界中でいろんな価値観を体験していて、自分たちが何をしたいかより、何ができるかを考えてやっているんですよ。利他的っていうのかな、彼らは人のために何かをすることのほうが喜びも大きいことを実感として知っていて。

塩井 へぇ〜、でもそういうふうに地球レベルで考えないといけないですよね。だから、あまり男女の違いを言わないほうがいいと思う、助け合って生きているから。でも、価値観の違いは驚きますよね。昔、N.Y.で歩くのに不自由しているお婆さんをサポートしようとして、一度断られたけど親切心でお手伝いしたんですよ。そうしたら、「私ができることを取り上げないで!」って怒られたんです。今となっては、そのお婆さんが自立努力をしているところを私がただ無理強いしたのだとわかるけど、当時はすごくショックで。日本でずっと育った私にとって、それを受け入れることは難しかったですね。絶対的にいいことだと思っていたから。

桑原 外交問題でも、どこかの国が信じられないようなことを言っても、現実としてそう言っている事実を受け入れないと何も始まらないよね。

塩井 価値観がすれ違う場面も含めて、女性にとって大事なのはコミュニケートすることだと思うんです。それは、消極的な性格の人が無理して社交的になれと言っているのではなく、私のような媒体役というか、自己主張や野望はそんなに無いけれど、そこに居ることが役目みたいなことは特に女性にできることかもしれないと思うんです。何もしない訳ではなく、まずは相手に興味を持ち、話しかけ、耳を傾けて受け入れ、そのままの姿を理解して励ます。男性はただそこに居るだけじゃ駄目で、もの頼りない。それが私の男性観ですね。

桑原 うんうん。でも、読者はるりのことを特別な人だと感じてしまうと思うんだよね。

塩井 そんなことないですよ。でも、たまに若い人から「るりさんみたいな仕事をしたいんですけど、どうやれば“すぐに”なれますか?」って聞かれるんです。時代のせいかもしれないけど、若い人がみんな焦っているように感じますね。私はどんな仕事でも、まずは一生懸命やることが大事だと思っていて。単純作業だろうが、アタマを使う仕事だろうが、与えられた仕事に没頭することが大事なんです。一生懸命やった1週間と、意味がないと思いながらやる1週間ではまったく違うし。没頭しないと、自分に問いもできないし前に進まない。そのときは役に立たないと思っていることも、何かしら大事な影響を与えてくれることが歳を取るとわかるから。早道があるとすれば、一見無関係なことでも没頭するしかないと思う。

桑原 なんでそんな当たり前のことを言わなきゃいけないといけないの? って思うけど。いま、そこを言ってあげることが大事なんだよね。世の中にかっこいい仕事と、かっこ悪い仕事があると思っている人も多いし。

塩井 仕事は何でもいいんです。朝起きて何かしらの仕事があるって素晴らしいことですよ。あと、男の人は女性から「力を貸して」って言えば、喜んで貸してくれる。一般的に女の人のほうが社会的なプレッシャーもないし、いろいろ挑戦しやすいんじゃないかな。

桑原 ハハハ、男の人は頼られるのが好きだからね。今日はどうもありがとう。

塩井るり

80年代初頭ニューヨークでNew Waveミュージックの波に乗りベーシストとして数多くの売れないローカルバンドで活躍。半ばからNew York Downtown ミュージック・シーンで元DNAのメンバー、イクエ・モリらと音楽制作に没頭。87年に六本木のナイトクラブ「トゥーリア」の為にNYのハウス・ミュージックDJをブッキングし始めたのがきっかけで佐藤としひろ氏と出会い人生が大きく転換。帰国後、巨大「芝浦GOLD」の企画メンバー、ストリップ邸「乃木坂ORANGE」の臨時ママ、「恵比寿みるく」のクリエイティブ・ディレクターと90年代寝る間も惜しんで東京のクラブカルチャーに献身。2002年に突然引退し、シドニ?に花嫁移住を果たしたが2006年には逆戻りして青山の社交クラブ「Le Baron de Paris」のディレクターに就任。2012年2度目の夜引退を宣言し、この夏一転してサラダの宅配ランチとケータリング「Mama Luli」を原宿Vacantを拠点に始動。

http://www.mamaluli.com